もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 07 ネパール

ネパールの首都カトマンズは、 通称「ヒッピー トレイル」と言われていたヒッピーたちの旅の最終ポイントだ。
頭のなかで壊れたレコードのように流れていたのは、ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドの「カトマンズ」という名曲 。1975年にリリースされた「美しき旅立ち(Beautiful Loser)」の中の一曲だ。
日本にいる佳子に会うためにロサンゼルスを出発してから数ヶ月。 その頃の僕の心情にピッタリな曲だった。
“I think I’m going to Katmandu.
That’s really, really where I’m going to.
If I ever get out of here,
That’s what I’m gonna do.
K-k-k-k-k-k Katmandu.”

世界で最も高い山として知られるヒマラヤ山脈のふもとには、チベット人が住んでいるたくさんの村があって美しく神聖な寺院も数多くあるが、一方、薬物についての意識にいたっては相当ゆるい国だというのが最初の印象。
この頃の若者たちが支持していたアメリカの心理学者ティモシー・リアリー教授のスローガン「チューンイン、ターンオン、ドロップアウト」という言葉に象徴されているように、親世代とは異なるライフスタイルの追求にもがいていた頃。資本主義、差別、戦争といった政治的な歪みに変わる何かを求める若者たちは、こぞってアフガニスタンやインドを旅して、異なる文化やライフスタイルを体験。新しい生き方を探し求めていた時代だった。
1970年代後半には政治情勢の変化で、これらの場所への旅が難しくなってしまったので、ギリギリのタイミングでこの旅が実現できたことは幸運だった。

旧カトマンズ王国の中心部にある旧王宮の前にはダルバール広場があった。写真の左側に写っているフリークストリートが旅行者の多くが集まるエリアで、長さは 1 km にも満たないけれど、商店が密集してにぎやかな通りだった。今までの旅で行ったところは地元の文化に直接触れる機会が多かったのに対して、ここは、政府御用達の大麻の店があったり、ネパールの芸術品や工芸品を販売する店とかチベットの布や本、チャイやケーキといった旅行者が欲しがるものがたくさんそろっている場所だった。
しかし、西洋人用ということで作られていた見た目の美しそうなペストリーは、期待して食べてみると甘さで胸焼けがしたほど。しばらく質素な食べ物しか食べていなかった僕の胃袋には少し刺激が大きかった。

迷い込んだ小道の名前が 「ピッグ アレー」。伝統的な市場を豚が自由に歩き回っていたことから、このニックネームが付けられたそう。ここでも牛が道路を歩いている風景を見かけた。地元の人が経営するローカルなお店が軒並みにあるフリー ストリートは外国人旅行者のたまり場。 世界中の人々と情報交換ができる楽しい場所だった。
旅の途中、カトマンズに行ったことのある人から教えてもらった安価な宿泊施設を見つけたので、その日はそこに泊まることに決めた。




芸術や文化や経済とあらゆる面の中心地として栄えるカトマンズは、世界で最も古い居住地のひとつ。散策しているとフリークストリートとダルバール広場周辺以外にも見どころがたくさんあった。フレンドリーな子どもたちや露天商との会話を楽しみながら街を散策するのが日課。インドとの違いといえば、物乞いが少ないことだった。


日本語では魔術師という言葉が一番近いのかも。







カトマンズに行ったら絶対行きたいと思っていた場所のひとつが「スワヤンブナート」だ。巨大なブッダの目がこの地に住む人々の全てを見守っているような寺院。別名を「モンキーテンプル」と呼ばれるほど、猿の多い寺である。
「人よりも神々のほうが多く住む町」と言われるとおり、宗教施設が多く点在するカトマンズの中で、ネパール最古の仏教寺院が「スワヤンブナート」。毎日多くの 巡礼者が 365段の階段を上って祈りを捧げる 。「カトマンズ盆地」の主要な構成要素のひとつとして1979年世界遺産に登録された。




スワヤンブナート寺院から眺めたカトマンズ渓谷の風景。後ろに、ヒマラヤ山脈の一部が見える。

ポカラは、アンナプルナ山を背景に、ペワ湖のほとりにある美しい町。
世界で最も高い10名山のうち3つが50km以内の場所にあると聞いていたのでトレッキングを楽しみたいとも思ったが、カトマンズよりもさらに時間の流れがゆっくりなこの町では焦らずにのんびりすることに。
市場で買ったパパイヤとヨーグルトの朝食は胃にも体にも優しく癒された。時を忘れるという極楽のような体験ができたのも最高だった。
もうひとつ、ポカラの思い出は雹にまつわる話。まるで時計がセットされているかのように午後になるとほぼ毎日雹が降ってきた。大きさは 100円硬貨くらいで当たったらひとたまりもない。だから雹が降ってきたらみんな近くの軒先に急いで避難するのが常識。しかし雹がぶつかるたびに「ウグゥ!」と呻き声をあげて雹が降る屋外をヨタヨタと歩いている弱々しい老犬がいて、その姿が呻き声とともに今でも目に焼き付いている。
通信手段に乏しい時代だったから、市場やレストランは情報交換をする大切な場所だった。ある日、シャクナゲが満開のルートがあるという情報をゲット。ネパールの国花のシャクナゲはネパール語でグランス。トラキングは、シャクナゲが咲き誇るそのルートを通ることに決めた。

旅には地図を持って行くのが当然という今の旅スタイルと違って、当時の旅は、風の吹くまま心が赴くまま。このブログを書くにあたってあらためて地図をながめ歩いた軌跡をたどってみると、懐かしい思い出がよみがえってくる。
カリフォルニアでは食料、調理器具、テントなど、充分な装備をしてハイキングに出かけたものだが、ここでのトラッキングはほとんど持ち物がない身軽な旅。どこに向かうかも決めないし、いつ終わるという時間制限もない旅。唯一確かだったのは、一歩ずつでも前に進めばいつかは終わりが来るということだけ。
旅行会社が計画してくれる旅は安心で安全だが、無計画で自由な旅は思いがけない出来事をたくさん経験できる冒険だ。途中で出会った人々から情報を聞きながらトレッキングを続け、名前もわからない小さな村を通過し、途中で見つけた茶屋に立ち寄ってお茶や食事をする。暗くなったら宿を探して一夜を過ごす。気に入ったスポットが見つかると、そこに1日か2日滞在して、また移動。情報は村の人や通りすがりの人が頼りで、向かう先に何があるかなどはほとんどわからずにひたすら歩く旅。
迷ったら来た道を戻るのが原則。
そんな旅の経験が僕の体の一部となって今でも残っている。


満開のシャクナゲから芳香が漂うルートに差し掛かると、ヤギの群れに遭遇した。シャクナゲの向こうに連なる美しい山々を眺めながら人気のない山中をひたすら歩き続けると、小さな村に到着。さらに歩き続けると大きめな集落にたどり着いた。ものを運搬するための車も電車もない集落だったけれど、郵便局、銀行、学校などはあって、近代化が進んでいる兆しが見えた。それでも荷物は人やロバが背負って山道を運ぶのがまだ当たり前。
なぜか村人たちは「薬」を持っているか頻繁に尋ねられたが、 残念ながら僕が持ち合わせていたのは靴擦れの対策用の絆創膏だけだった。


このあたりの建物はほとんど石で建てられていた。頑丈そうな構造だったが、山々に囲まれ地震が発生しやすい地域でもあり、どれだけ地震に耐えられるかは疑問だとも思った。
何カ月も旅をしていたので抵抗力もできて、地元の人たちと同じように何でも食べたり飲んだりできると思って安心してしまい、1週間のハイキングのあと激しい下痢に見舞われてしまった。朝日が昇るのを待ちきれずに、ドアもなにもなく屋外にある厠のようなトイレに行くと、ネパール人やチベット人も同じようなトラブルを抱えているようで混み合っていた。
体調を整えながらのトレッキングは、その後否応無しにスローダウンすることになった。

トレッキングの途中になんども出会ったアメリカ人男性とパートナーのイギリス人女性は、ギリシャに数年間住んで集めた古い陶器や骨董品を売って資金作りをし、旅行を続けていた。自国を出発する時に持ち出したものや、旅先で購入したものを行く先々で売りながら旅行費を作って旅を続ける人が多かった。


中央に聳え立っているのがマチャプチャレ。ヒマラヤ山脈の中ではまだ標高は低いだが、それでも 6,993 m の高さを誇る。
トレッキングの常識は無駄な物を持たないことと教わったとおり、僕の持ち物は数枚の服と大事なカメラだけ。疲れたときに食べるキャンディーが、唯一の贅沢品だった。
途中疲れを癒すためにそのキャンディーを口に頬張ってみると、なんとカレー味。数カ月の食事はほぼ毎日カレー味だったので、ワクワクしながらキャンディーをほおばった僕にとっては相当ショックだった記憶が鮮明に残っている。山中を通り抜けるトレッキングはあまり変化がなかったけれど、森を抜けると眼下に息をのむような谷あいの景色が広がって感動的だった。




ネーパールの山中をさまよった2週間半で、自然に寄り添いながら生活している人々への感謝と尊敬の念をより深めることができた。
美しい棚田に沿うように石畳が敷かれた小道を、導かれるままに歩いて行くと、農耕をしながら自然とともに生きる家族に出会った。当時は「里山」という言葉は知らなかったが、今思い出してみると、彼らの生き方やコミュニティーそのものが、まさにこの「里山」という概念と重なる。

アメリカを1876の秋に出発してから8カ月が経過。ヨーロッパ、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパールを巡った大冒険の記念の写真を撮影した。
シンプルなライフスタイルを求めて西側からネパールにやって来た旅行者が、長い歴史とともに熟成した文化、芸術、精神性などの貴重な経験に触れて覚醒する。その一方で、フリークストリート周辺に住んで働く若い世代のネパール人は旅人と出会うことで西洋の新しい情報を知って変容する。
凄まじい化学変化が起きていた時代を僕は目撃することができた。
山を降りてカトマンズの診療所に直行。診察の結果、休養が必要だと言われビルマ行きのフライト日程を変更。
当時人気があったジェームズ・クラベルの小説、『将軍 SHOGUN』を持ってアメリカを出発した大冒険旅行を振り返る数日間だった。
カトマンズに到着した時に聴いていたボブ・シーガーの歌にかわって、キャット・スティーブンスが歌う「カトマンズ」(モナ・ボーン・ジェイソンのアルバム)がその頃の気持ちにはしっくりだったようで、 頭の中でキャット・スティーブンスが歌う 「カトマンズ」が何度も何度も繰り返し鳴り響いていた。

佳子が住む日本までもう少しだ!