Bruce Osborn

once upon a time

もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 08  ビルマ 

ネパールに1か月半滞在後、飛行機でカトマンズを出発。ビルマのラングーンに到着した。当時(1977)は、ビルマ滞在の観光ビザは7日間だったから、今までに比べるとけっこう慌ただしい旅だ。

「地元で使うkyat(チャット)という通貨の為替レートが良くないから、入国前には空港の免税店でジョニーウォーカーレッドとタバコを購入するといい!」というアドバイスをほかの旅行者から聞いていたので、空港の税関でウイスキーとタバコを購入。その理由が分かったのは空港を出た直後のこと。ウィスキーとタバコを闇値で購入する人が近づいてきてすんなり交渉成立。おかげで、ビルマ滞在中の資金が捻出できた。

ゆっくり楽しみたいという気持ちは強かったが、短い滞在時間を有効活用しなければならないということもあり、まずはラングーンから遠く離れたマンダレーに行くことにした。

マンダレーについての知識といえば、ラングーンに次ぐビルマ第二の都市ということと、フランク・シナトラが歌っていた「マンダレーへの道」という曲ぐらい。
この曲のタイトルが、ビルマ人の恋人と再会するためにマンダレーに戻ることを切望するイギリス兵のことを書いた、ラドヤード・キプリングの詩になぞらえて付けられたものだということを知ったのは、ずいぶん後のことだった。

切符を購入して電車に揺られること17時間。窓から見える広大な風景と沈む夕日を眺める列車の旅は、ゆっくりとこの国を知る貴重な時間になった。翌日の正午近くにマンダレーに到着。穏やかな街並みに迎えられて気持ちが癒された。

ほぼ全員がロンジー(腰に巻く筒状の布)を着ていたことが街の第一印象。
マンダレーでの初日でまずしなければならなかったのは、宿泊所を見つけること。幸い、フレンドリーな男性が経営するゲストハウスが見つかって一休み。
そのあとで街の探索に出かけた!

僧侶も老婆も子供たちまでもが、チェルートという短い葉巻を吸っていて、まるで喫煙者の楽園のようなマンダレー。
市内散策中に突然の大雨に見舞われ、マンダレーでの最初の買い物がビルマの日傘となった。

喫煙の習慣と同じぐらい印象的だったのは、ネパールやインドと同様にビルマでも幼い子供たちが大人と同じように責任ある仕事をしていること。与えられた仕事の責任を担い、誇りを持って生活している子供達に感動させられた。
彼らからは、ぼくの出身地について聞かれたり、アメリカでの生活についてのさまざまな質問もされた。そして彼らは、自分たちの国の印象についても知りたがった。

最近では耳にすることもあるThanakha(タナカ)は、ビルマでは伝統的な天然の化粧品。樹皮をすりつぶして作ったペーストで、顔や、首、腕、足などに化粧のように塗ったりする一方、陽ざしの強いこの国の人たちにとっては日焼け止めとして欠かせない品物のようだった。
ビルマの滞在時間は1週間と限られているために、翌朝パガンに到着するボートに乗ってマンダレーを出発した。

ビルマの古都であり文化の中心地であるパガンはイラワジ川のほとりに位置し、数多くの寺院や仏塔があることで知られる街。ビルマ文明発祥の地ともいわれるだけあって、古い町並みを散歩しているとまるでタイムスリップしたような気分になった、そんな記憶が蘇ってくる。
地元の人たちが着ている国民衣装の印象がその演出に一役買っていた気もする。

人口のほぼ90%が仏教徒というビルマには約1,500の寺院がある。その中でも寺院の数が圧倒的に多いのがバガンだそう。
中でもマンダレーヒルは、ビルマ仏教徒の主要な巡礼地として、そして仏塔や修道院がたくさんあることでも知られている。
丘の頂上にはスタウンピエイ・パゴダがあり、眼下には美しいパノラマの景色が広がっていた。
写真の背後にある白い寺院は、パガンで最も高い仏塔があるタビニュ寺院。左側にある寺院はこの地域では最大の大きさだといわれるダンマヤンジー寺院。

サフラン色の僧衣を着た人たちを多く見かけた。
修行僧だという僧衣を纏った若い男の子たちにもたくさん出会った。
裕福ではない家族の子供たちにとって、無料で教育を受けられる僧院は子供たちにとって大切な学びの場ということで、5歳から15歳までの男子は一定期間僧院に入る習慣があるそう。その後に出家僧となるのは、家族の名誉だという話も聞かせてくれた。若い子女も同様、貧困から脱出してより良い未来への希望を持つためには、僧院で教育を受け尼僧になるのが大切とされていたようだ。

見知らぬぼくにも快く話しかけてくれる僧侶や、寺院で働くフレンドリーな労働者のおかげで、町への親しみが深まり、出会った人たちと意識を共鳴し合え充実感を味わうことができた。

バガンで、若い男性から声をかけられた。
ぼくの着古したジーンズとTシャツを、彼が持っている遺跡で見つけた仏像と交換したいと言う。どれほどの価値がある仏像かはわからなかったけれど、ジーンズとTシャツに使い捨てのカミソリをおまけにつけて、彼の仏像と交換した。
このあと、パガンで交換した仏像をバッグパックに大切に詰めて、ビルマでの残された時間を楽しむために、ラングーン行きの飛行機に乗り込んだ。
この時交換した仏像は、家の守り神のように我が家のリビングルームに今も鎮座している。

ビルマ第1の大都市ラングーン。
山盛りに荷物を積んだ自転車、年代物のトラック、そしておそらく40年代以前と思われるほど古い中古のベッドフォードのバスが行き来する交通量の多い目抜き通りを縫うように、荷物を積んだ牛車がゆっくりと歩いていた。
イギリスの植民地だった頃からの名残というか、新しい建物はほとんどない。自分へのご褒美としてビルマ最後の宿泊に選んだのは、ストランドホテル。1901年、植民地の頃に建てられた豪華なホテルだ。館内に入ってまず気が付いたのは、大規模な修復が必要と思われるほどに荒廃しているということだった。それでも、8ヶ月間の旅行中に滞在したどの宿泊施設と比べると、まるでシンガポールのラッフルズホテルにチェックインしたような気分だった。
バーでブラブラするのも久しぶり。ちょっとした都会の気分を味わえた。
たくさんの寺院や仏塔を見てもなお、ビルマで最も神聖な仏教塔とされているシュエダゴン・パゴダをスルーすることはできないと思って、混雑が少ない早めの時間に行ってみることに。

目指すシュエダゴン・パゴダに到着。
人影もまばらな早朝の寺院。
塔内に安置されている多数の仏像に出会える期待に心がワクワクした。

悲劇が起こったのは寺院巡りの最中のこと。
気がつくと、カメラバッグが切り裂かれてカメラがなくなっていた。
旅行中に何度か危うい経験に見舞われたが、用心に用心を重ねていままで被害を被らないできたというのに!!!
「ついに!」その悲劇が現実となった。
写真が撮れなくなってしまったことに加えて一番困ったのは、入国時に所持品として登録したカメラが出国時にはないという事実。せっかく行ったシュエダゴン・パゴダでの静寂な気分は吹っ飛んで、あわてて警察に駆け込んで盗難届を提出することになった。
すべての手続きを終えて、ラングーンでの残された時間はボージョー・マーケットに行くことにした。
刺繍が施された布、翡翠などの貴石、漆器、仏像に至るまで、想像できるあらゆる美しい土産物が店先に並んでいたが、うかれた気分にもなれずに、小さな翡翠の石といくつかの漆器を購入。
写真が撮れないということが無念だった。

ビルマからはバンコクに。
数日後にはサムイ島に南下。
タイの西側にあるコサムイ島とコプイプイ島に行った時の記念写真もなし。

来日を知らせる電報を佳子に送った。