once upon a time 14

~もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 14
日本で初めて写真展を開いた1980年の頃

小西六フォトギャラリーにて、1980年
小西六フォトギャラリーにて、1980年

三部作のその2は LAのパンク・シーン
The Go-Go’s、X、Screamers、Levi & the Rockats、Ray Campi らのミュージシャン、そしてニューウェーブ系ファッションデザイナーの Gregory Poe、Richard Tyler、Spazz Attack らとのコラボレーション。
個性的なLAのデザイナーたちも、喜んで制作に協力してくれた。
展示風景[写真展 La Fantasy 三部作]
展示風景[写真展 La Fantasy 三部作]

1980年春、日本橋にある小西六ギャラリーでの写真展開催が決定。
僕はロサンゼルスの街、人々、そしてクリエイターたちをテーマにした三部構成の展覧会を企画し、タイトルを『La Fantasy 三部作』と名づけた。
そのうちの一つは、LAの仲間のクリエイターたちとコラボレーションして制作した一連の作品だ。
この作品が、日本のアーティストたちとの友情を深め、今も続く強い絆の架け橋となったのは間違いない。
僕にとって『La Fantasy 三部作』は、まさに幸運の女神だった。
会場に決まった小西六ギャラリーで最初に僕の作品を目にした担当者は、そのあまりに自由な表現に驚き、「写真に絵を描いたり、焼いたり、テープを貼ったりしてもいいんですね!」と感想を漏らしたことが、鮮烈な記憶として今も残っている。
ところがフタを開けてみれば、予想をはるかに超える来場者が詰めかけ、特に普段とは異なる層の観客が多かったことに、担当者たちは再び驚いて、「今はこういう写真に、みなさん興味を持つ時代なんですね!」という感想の言葉を漏らしたのが今も強く印象的だった。
井上清司さん
井上清司さん

三部作のその1は Dot & Viv による等身大の人形たち
この作品では、背景やセットのデザイン・制作をすべて自分自身で手がけた。
展示された人形たちの前に立っているのは、日本での初写真展を企画してくれた井上清司さんだ。
三部作のその2は LAのパンク・シーン
三部作のその2は LAのパンク・シーン

The Go-Go’s、X、Screamers、Levi & the Rockats、Ray Campi らのミュージシャン、そしてニューウェーブ系ファッションデザイナーの Gregory Poe、Richard Tyler、Spazz Attack らとのコラボレーション。
個性的なLAのデザイナーたちも、喜んで制作に協力してくれた。
矢野雅幸さん(右)
矢野雅幸さん(右)

展覧会に何度も足を運んでくれたデザイナー、矢野雅幸さんとの出会いも、日本のアーティストたちとつながる大きなきっかけになった。
Photo by Bruce Osborn, Tomata du Plenty
Tomata du Plenty

三部作のその3は Tomata du Plenty とLAアーティストたち
Screamersのボーカル、Tomata du Plentyの写真を中心に、LAのアーティストたちとのコラボ作品を展示。
このシリーズは、日本での展覧会に先駆けてLAでも発表していた(Vol.13)。
Tomataのエネルギッシュなライブパフォーマンスの臨場感を伝える写真をスタジオで撮影し、それをレコードジャケットのデザイナーやアーティストに託して作品制作を依頼した。
プリントサイズはA2。どのアーティストもこの挑戦を喜んで引き受けてくれた。

工藤誠司さん
工藤誠司さん

数えきれないほど多くのアーティストを紹介してくれた東芝EMIの工藤誠司さん。
会社に行ってみると、クリエイターもたくさん紹介してくれた上に、帰り際にはダウンタウン・ブギウギ・バンドや甲斐バンドのアルバムをプレゼントしてくれた。
アメリカから来たばかりの僕には、彼らの音楽がとても新鮮で、すぐに虜になった。
工藤さんは、僕が一度アメリカに戻った際に休暇を取って渡米したので、LAの友人たちやアーティスト、そしてLAの魅力を案内し、感謝の気持ちを伝えた。
モノクロ写真展で数枚の肖像画の前に立つ男性。
西哲さん

当時大活躍していたイラストレーター、西哲さんとの出会いもこの展覧会がきっかけ。
その後、日本に住むようになってからも、公私ともに多くの時間を共にした。
ゲン垂水さん
ゲン垂水さん

東京のファッションシーンをリードしていたハリウッドマーケットのオーナー、ゲン垂水さんとの出会いも大切な出来事の一つ。
また、写真家にとってたいせつなプリントをお願いすることになった写真弘社との出会いは、以後の制作活動において大きな支えだった。展覧会の作品制作を最高の技術でサポートしてもらうというのは、写真家冥利に尽きる幸運だ。無理難題を解決してもらった思い出も数多くあります。
ビショップ康史さん(左)
ビショップ康史さん(左)
写真展の前でポーズを取る二人の人物。背景にはアート作品が飾られている。
佐藤ナナコさん、金谷真さん
永田襲三さん(右)
永田襲三さん(右)

展覧会の評判は口コミで広まり、日を追うごとに来場者が増え、それにともなって新たな知り合いも次々と増えていった。
金谷真さん、佐藤ナナコさん、ビショップ康史さん、永田襲三さんなど、今も第一線で活躍さしている面々と出会えたことは、この展覧会における最大の成果のひとつだった。
近年では、金谷さんがファインアートの分野でアーティストとしての地位を確立し、ビショップさんは「游刻」と名付けた篆刻作品を精力的に発表している。
1980年代のソニーのカセットテープ広告。人の顔のアートスタイルと鮮やかな色使いが特徴。

出版・放送・広告業界への写真のライセンスを扱う Pacific Press Service(PPS)が僕の作品に興味を持ってくれたのも幸運だった。
初仕事は、写真展で展示した作品を、ソニー・カセットテープの広告ポスターとして東京の地下鉄やJR駅に掲示するというものだった。
その後も、PPSは企業広告関連のクライアントに作品を持ち込んでくれるなど、コマーシャル写真家として必要不可欠な営業面のサポートを長年にわたって続けてくれた。
社長のRobert Kirschenbaumさんは戦後から日本に住んでいたアメリカ人。日本で長年生活してきた大先輩には、仕事とプライベートの面でたくさん助けてもらった。
大竹伸朗さん
大竹伸朗さん

ちょうどロンドンから戻ったばかりだった大竹伸朗さんが作品を持って会場に来てくれたのも嬉しかった。
旅中に集めた雑誌の切り抜きや旅先で見つけたスティッカーに混ざって、所狭しと描かれた絵で埋め尽くされ分厚く膨れ上がったスクラップブックに度肝を抜かれた。
写真は、後日彼のアトリエに行って撮影したもの。
展覧会の合間を縫ってよく行ったのは、来日してから住むことになっていた浅草だった。かつて東京の中心地として人の集まりが多かった浅草も若いクリエーターはあまり振り向かなくなってしまい、その頃のトレンディーは六本木や麻布。しかし、浅草は僕にとって新鮮で、新しい発見も多く、日本を知る格好の場だった。
石井志津男さん
石井志津男さん

展覧会の最終日、雨の中を駆け込んできたのがオーバーヒートの創設者、石井志津男さんだった。彼にもたくさんお世話になったが、彼が敬愛するアーティストで僕の友人でもある Gary Panter との関係を取り持つことができたので、少しばかり恩返しができた。
ペーター佐藤さん
ペーター佐藤さん

石井さんは、エアブラシ・アートで人気の高かったペーター佐藤や、『ポパイ』『ブルータス』の編集者だった都築響一さんも紹介してくれた。
この出会いをきっかけに、僕は『ポパイ』『ブルータス』の撮影を手がけることにもなった。
都築響一さんとのご縁は、彼が運営するROADSIDERS’ weekly の執筆にもつながった。
五十嵐威暢さん
五十嵐威暢さん

著名なロゴタイプデザイナーであり、当時『アイデア』誌の編集長だった五十嵐威暢さんを紹介してくれたのも、前記した東芝EMIの工藤誠司さんだった。
かつてロサンゼルスに住み、UCLAで教鞭をとっていたこともある五十嵐さんは、LA時代からその名前を何度も耳にしていた僕にとって、まさに憧れの存在だった。
モノクロ写真の中で、軍服を着た男性たちが集まり、ビールを持って笑顔を見せるシーン。対面にいる人物はユニフォームを着ており、周囲には障害物や装飾が配置されている。右下には赤い照明が当たったヒールの靴がレコードの上に置かれている。
『アイデア』誌掲載ページ
A collage of artistic portraits featuring energetic stylings and bold colors, highlighting a range of expressive facial expressions and creative editing techniques. Photo by Bruce Osborn
『アイデア』誌掲載ページ

ポートフォリオを手に彼のオフィスを訪ねると、『アイデア』誌で僕の写真を紹介してもらえるという話になり、気分は有頂天!
当時、SMSレコードのアートディレクターだった安斎肇さんと出会ったのもその頃。以来、展覧会を企画したりコラボレーションをする仲間だ。
この時期に出会った誰もが僕の人生に大きな影響を与えてくれ、日本で過ごす時間を豊かにしてくれたのは間違いない。
『プレイヤー』誌
『プレイヤー』誌

展覧会直後!音楽雑誌『プレイヤー』の編集長からは、Tomata du Plenty を撮影したシリーズを毎号掲載したいというオファーがあった。40年前の『プレイヤー』は、単なる情報誌にとどまらず、音楽愛好家やミュージシャンたちの活動を支え、ロックやメタルに情熱を注ぐ読者にとって、欠かせない存在だと聞いていた。そんな雑誌に作品を掲載してもらえるのは、音楽好きの僕には嬉しい出来事だった。
Phew
Phew

東京のパンクシーンを見てみたい」と西さんにお願いしたところ、Passレコード所属のバンドが出演する日に合わせて、外苑前のベル・コモンズに連れて行ってくれた。
最初に登場したのはPhew。ほとんど動かず、感情を抑えた独特なスタイルで歌う彼女の背後では、マスクを被った怪しげな2人組がシンセサイザーを演奏しており、その光景に完全に釘付けになった。
Phewの歌声は、静かに、しかし深く内側から響いてくるようで、会場全体がまるで催眠術にかかったかのように、誰もが彼女の声に引き込まれていた。僕もまた、すぐに彼女の音楽に夢中になってしまった。
後日、Passレコードの経営者・後藤利次さんと話す機会があり、マスクのミュージシャンが誰だったのか尋ねてみると――なんと、坂本龍一さんと後藤さん自身だった。
Friction
Friction

次に登場したのはFriction。
メンバーの入れ替わりはあったものの、基本は、ギター兼ボーカルのレック(写真右)、ギターの“まっちゃん”ことツネマツマサトシ(写真左)、そしてドラムのチコ(写真奥)による3人編成のバンド。
レックはかつてNYでJames White & the ContortionsやTeenage Jesus & the Jerksのメンバーとして活動していたし、チコもNYでの演奏経験があり、その音にはNYアンダーグラウンドの空気が滲んでいた。
ロサンゼルスでのパンク・サウンドに馴染みがあった僕にとっても、Frictionのサウンドは共感することができて、ライブには何度も足を運んだ。
酒井順平さん率いる舞踏集団・斜踏団
酒井順平さん率いる舞踏集団・斜踏団

東京滞在中に出会った印象的な表現のひとつに「舞踏」がある。
紹介してくれたのは、小西六ギャラリーでの展覧会を企画してくれた井上さん。
全身を白く塗った半裸の演者たちが、言葉を使わず、全身で何かを表現するその姿に、最初は強烈な違和感を覚えた。
けれども、その“わからなさ”に逆に惹かれて「この不思議な違和感の正体を知りたい」という衝動に突き動かされ、何度も公演に通うようになった。
やがて、舞踏家をスタジオに招いて撮影する機会もでき、「舞踏」への理解を少しずつ深めていくことになっていった。
ホンダのCM Madness
ホンダのCM
男性がウイスキーのボトルを持ち、笑顔で指を指しているシーン。テーブルの上には氷とグラスが置かれている。
1973年CM サントリー サントリーホワイト Get with It サミー・デイヴィス・ジュニア

日本で仕事をしたい――そう思うようになったきっかけのひとつは、街で目にする広告やテレビCMの表現の豊かさだった。
アメリカの広告がシンプルでストレートなメッセージを伝えるというスタイルだったのに対し、当時の日本の広告は、感情やユーモア、エンターテインメント性に富んだ、創造的なアプローチが多く見られた。
ホンダのCMにイギリスのスカバンド「Madness」が登場したり、Sammy Davis Jr. がスキャットを披露しながらサントリー・ホワイトを宣伝したり……。海外のスターが日本のCMに登場する驚きや面白さは新鮮だったし、とにかく楽しかった。

和装した男性が大きな紙に書かれた日本語の文字を持っている。背景には収納家具が見える。
女性と二人の子供が写っているアートスタイルの写真。女性は大きなリボンのようなヘアスタイルとシルバーの衣装を着ており、子供たちは赤いドレスを着ている。背景は淡いグラデーションで、全体的に幻想的な雰囲気を醸し出している。

駅貼りのポスターや街を彩る自由な表現の広告は、クリエイターにとって夢のような仕事で、僕の想像力のアンテナに響いた。たとえば、Woody Allen が「おいしい生活」というキャッチコピーと共に西武百貨店の広告に登場するなど、遊び心の中にもメッセージ性のある表現にワクワクした。
「広告って、こんなにもアートできるんだ〜」
そう感じた瞬間、そんな表現を生み出す人たちと一緒に仕事がしたいという思いが、自然と心の中に芽生えていった。
夜景の東京タワーと都市のスカイライン。モノクロの写真で、川と建物が映っている。

1ヶ月間の日本滞在を通じて、「いつか日本に住んで、私の背景になっている日本の暮らしや文化を肌で感じて欲しい」という佳子の願いが、現実味を帯びてきた。

帰りの飛行機の中で「今がその時期かもしれないね」という気持ちがふたりの中で確かになり、帰国後すぐに引っ越しの準備を開始。
スーツケース2つを手に、僕たちふたりが再び日本に降り立ったのは、翌年7月のことだった。

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