Bruce Osborn

once upon a time

もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 01

今年で40年周年を迎えた「親子」写真シリーズでもっともよく知られる写真家ブルース・オズボーン。僕もずっと前にいちど、亡き父と一緒に撮ってもらったことがあるけれど、1982年にスタートした「親子」のプロジェクトは、もう3代目の親子を撮影することもあるという超ロングシリーズとなって、いまも続行中だ。

この春、高輪の泉岳寺近くにあるアダンという店で、ブルースのカリフォルニア時代の写真展を開いていると聞き、懐かしくなって足を運んでみたら、ブルースと奥さんの佳子さんと店主の河内一作さんが、まだ外が明るいうちから飲んでいた。オズボーン夫妻も懐かしかったが、河内さんも1970年代後半から西麻布クーリーズ・クリーク、青山CAYなどたくさんの店を手がけてきて、僕らみんながさんざんお世話になったひとだった。

1950年にロサンジェルスで生まれ、カリフォルニア文化のなかで育ったブルース・オズボーンが東京にやってきたのが1980年。それから間もなく僕らは知り合って、雑誌『BRUTUS』の仕事を何回も一緒にするようになった。そのころブルースたちが住んでいた浅草は、いまとはまったく別の、ものすごく寂れ荒廃した街で、そんな場所でふたりが年老いた芸人やクセありすぎの飲んべえたちと楽しそうに付き合ってるのを(遠くから)見るのが楽しくて、浅草でもずいぶん一緒に遊んだりした。

あれからブルースたちは湘南の海の真ん前に素晴らしい住処を見つけ、僕らはたまにしか会うことがなくなったけれど、久しぶりにじっくり見たブルースの写真には、POPEYEからBRUTUSにかけて毎年何度も、憑かれたように通っていた、あの時代のロサンジェルスの空気感がモノクロームのプリントにたっぷり封じ込められていた。

1970~80年代というのは、ようするにパンクからニューウェイブにいたる時代で、ロサンジェルスにももちろん活発なシーンがあったけれど、ニューヨークともロンドンともちがうLAパンクのまとう雰囲気は、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」という不変のテーゼを持ちながらも、どこかトロピカルめいた風通しの良さがあった。LAではパンクスだってクルマで移動していたし、革ジャンは暑すぎたのだし。

暴れんぼうだけど優しい、危ないけどかわいい、そんなハミダシモノがうごめいていた時代のロサンジェルスをブルースに語ってもらいたくて、連載をお願いした。もう半世紀前ほどに撮られた写真を引っ張り出してもらいつつ、いろんな思い出を書いてもらうつもり。

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と、ヘミングウェイは『移動祝祭日』の冒頭に書いたが、あのころ20代で洗礼を受けた「めちゃくちゃだけどフレンドリー」なアンジェリーノたちと過ごした移動祝祭日みたいな日々は、いまも僕についてまわって離れない。これから毎月いちど届ける連載から、そんな感覚のかけらを受け取ってくれたらうれしい。

出会った頃の僕と妻の佳子

僕が生まれたのはアメリカの黄金時代だった。第二次世界大戦が終わり、素晴らしく幸せで豊かな時代。自由を満喫して人生を楽しむ術や、一生懸命働けば何でもできるということを教わり、そう信じてきた。戦後のベビーブームのさなかにロサンゼルスの郊外で生まれ育った僕だったけど、今では日本での生活がアメリカよりも長くなり、半分は日本人のような気がしている。日本語はまだまだうまく話せないけど、半分アメリカ人で半分日本人という僕が今思うのは、アジアやヨーロッパの歴史ある文化に比べ、アメリカはまだまだ若く、成長途上ということ。現在、アメリカでは政治や経済、そして文化的にも二極化が進み、自分が信じていることを相手にわからせようとするけど、相手の話を聞く耳は持たないという最悪の事態が生じている。いつか変わる日が来て欲しいとニュースを見たり聞いたりする度に願っている。

今回、思いがけなくキョーイチくんから声をかけてもらい、シリーズで何かを書いて欲しいという依頼を受けたので、「once upon a time」というタイトルで、これまでのことを振り返ってみたいと思った。キョーイチくんとは日本に来てから間もない頃に出会った。その出会いからいまの自分のことにたどり着くまで、どのくらいのボリュームの連載になるか予想がつかないけれど、お付き合いいただけたらうれしい。

いま日本の若者たちのあいだでは昭和がブームと言われているらしいけれど、アメリカでもその時代は、1957年から1963年まで放送されて日本のテレビでも人気があったホームコメディー「ビーバーちゃん」に象徴されるような、ユースカルチャーが花開いた時期だった。

姉のロビンと僕

東海岸のシカゴから、西端の太平洋に面したカリフォルニア州サンタモニカまでをつなぐルート66は、幾多の音楽や映画でも語られてきたアメリカの大動脈だ。都市から郊外へ、砂漠地帯へと続くロードサイドにはたくさんのユニークなショップやレストラン、ホテルが立ち並んで、ドライバーたちの視線を捉えてきたものだった。ルート66の通過点の街のひとつ、サンバーナディーノには、インディアン・テント型の客室で有名なウィグワムモーテルが、驚くべきことにいまも営業中である( https://wigwammotel.com)。

ルート66の道路標識
ウィグワムモーテル
ルート66の西端、サンタモニカピア

サーフィンが大流行した60年代には、友だち全員がサーフィンをしていた。ティーンエイジャーの僕らをビーチに連れて行ってくれるのはだれかの両親のどちらかの役目で、運転手がいない時にはスケートボードで遊んでいた。超人気だった日本のトランジスタラジオから聞こえてきたのは、そのころ受けていたビーチボーイズの『カリフォルニアガールズ』やサーフバンドのサウンド。僕らは世界最高の場所にいると信じて疑わなかった。

スケートボード中の僕

カレッジを卒業したあとはプロの写真家を目指したけれど、それには技術的な側面をもっと勉強しなければならないと思い、アートセンターカレッジオブデザインに進学した。アートセンターはクリエイティブな仕事に就きたい人のための学校で、写真以外にも自動車のデザイン、イラストレーション、グラフィックデザイン、広告、映画、インダストリアルデザインなどさまざまな部門があった。クリエイティブなエネルギーに触れること、さまざまフィールドの学生たちから学ぶこと、すべてが刺激に満ちていた。

入学して1年目は、重くて扱いにくい大型の4×5カメラですべての写真を撮らなければならなかった。それは35mmの一眼レフとはまったく違ったけれど、自分の考えるイメージにより近い写真が撮れることを知って、構図や技術について多くを学んだ。この一枚は1974年の感謝祭のディナーに集まった家族と親戚一同の写真である。

すでに亡くなってしまった祖父母と父母そして叔母と叔父もいっしょに

アートセンター時代の友人だった「ドット&ヴィヴ」はイラストレーションを専攻していたが、「身につけるアートワーク」というデザインで独自の領域を開拓していったユニット。ハリウッド・ブルバードで撮影したこの一枚のように、ふたりと一緒におもしろそうな撮影場所を考えながらぶらぶらするのは、とても楽しい時間だった。

ハリウッド・ブルバードのベンチに座っているドットとヴィヴ

「ボブ&ボブ」は同じ時期にアートセンターで ファインアートを専攻するかたわら、ギャラリーやパーティー、クラブなどに出没してコミカルなショーをしていた。ふたりの写真を撮らせてほしいと頼んだとき、それがボブ&ボブ流というのかもしれないけれど、待ち合わせの時間と場所を書いた紙片を渡された。場所はサンタモニカの駐車場。着いたとたんに目隠しをされて、ふたりの隠れ家に連行されたのだった。ようやく目隠しを外されてみると、そこにいたのは銃を持ったボブ&ボブと、裸の女性 。どうやら秘密工作員という設定だったらしい。これはボブ&ボブの貸し切りパフォーマンスを楽しみながら撮影した一枚。

スペシャル・エージェントを演じるボブ&ボブ

デイブとは一緒のカレッジに通い、当時は僕の部屋に居候していた。裸のギタリストの写真を撮りたいと話したら、ボランティアでモデルになってくれた。

ギターを弾くデイブ

アートセンターに通うのはフルタイムの仕事のよう。学校以外の遊びに割ける時間がなかったから、それなら授業の課題を楽しんでしまおうと思いついた。モデルになってくれたジーンは従兄弟のガールフレンドで、僕らはみんなアートセンターの学生だった。ジーンがアイロンをかけているのを見て、「退屈しきった主婦」の役を演じてもらったのがこの写真だ。

アイロンをかけるジーン

ポールは第一次世界大戦の軍服をコレクションしていた。僕は当時溜まり場にしていたバーに頼んで、撮影の場所として開店前の店内を貸してもらうことにした。友人一同に声をかけ、みんなで軍服を着用。朝の9時からビール・パーティを楽しんだのだった。

第一次世界大戦の軍服パーティ

※泉岳寺アダンではブルース・オズボーンのカリフォルニア時代の写真を長期展示中。おいしい酒と料理を楽しみながらご観覧を!

http://adan-radio.com/

ROADSIDERS’ weeklyより:https://roadsiders.com/