Bruce Osborn

once upon a time

もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 02 写真家への第一歩

仕事探し

アートセンター卒業後に直面したのが職探しだった。アートを専攻した学生誰もが経験する難関。一筋縄ではいかない。電話でアポを取り、大きなケースに入れた作品を持って写真家に会いに行くというのが、写真家を志す当時の学生の定番。ちょうど同じ頃に職探をしていた仲良しのDotとVivとも、彼女たちのアパートに詰めて一緒に仕事を探したものだった。電話をかける先は写真家に限らずアートディレクター、デザイナー、レコード会社、雑誌、その他なんでも可能性がありそうな相手に電話をかけまくった。電話をかける先は3人で共有。3人が5分刻みでかけるので、先方も不思議に思ったろう。当然アポの時間も同じような時間帯。アポが取れるとポートフォリオを抱えて作品を見てもらいに行ったのは懐かしい思い出で、楽しかったこともたくさんあったけれど、仕事はそんなにたやすく探せなかった。

食肉工場からの脱出

友達のポール・グリーンスタインとは、いろんな企画を考えて楽しい写真を撮っていた。ポールはおもしろい衣装や場所やアイデアを探す天才だった。 ある日、彼が受刑者の服と豚のマスクという不思議な組合せの小道具を持って遊びに来きたことがあった。それに刺激されて撮影したのが「食肉工場からの脱出」というタイトルの写真。 食肉加工会社であるファーマー・ジョンの食肉工場から豚が脱出するという場面である。

なぜこんな衣装とマスクを持っていたのかは、いまだに不明。

スティーブ・スミスとの再会

日本 でいうなら「山田太郎」とでも言うべきか。スティーブ・スミスはよくある名前ナンバーワン。小学校時代からの友人だったが、僕がサンフランシ スコに近い大学に行くことになって以来 、LAに住んでいたスティーブとの連絡は途絶えてしまった。かといって名前が名前だけに探しようもなく、そのまま疎遠になっていたのだった。

その彼に、たまたま行ったパーティーでバッタリ再会! アートをやっていると聞いて意気投合。彼がすでにアートの仕事で自活していると聞き発奮した。当時のクリエーターにとって、タワーレコードの店内にレコード・ジャケットなど自分の作品が飾られるというのが、なによりの憧れだった。スティーブはすでにその段階に達していて、彼がデザインしたバンドPretty Thingsのカバーがタワーレコードの壁にあると話を聞き、本人の写真を作品の前で撮ろうと彼を誘ってタワーレコードに行ったのだった。そのあとまた頻繁に彼と会うようになって、いろんな情報を聞いたりアドバイスを受けたりできて、僕の仕事にも大いに役立つことになった。

フォノグラフレコードマガジン(PRM)で働く

その頃のLAには、ミュージシャンのレコード・ジャケット写真を撮ったら右に並ぶものがないと言われる人気絶頂の写真家がいた。ミュージシャンであればだれしもジャケットを撮ってほしいと願うカリスマ写真家、それがノーマン・シーフだった(https://normanseeff.com)。その例にもれず僕もアシスタントになりたかったので、電話でアポが取れたときはそうとう興奮した。

ドキドキしながらポートフォリオを見てもらい、助手になりたいと言ってみたら、予想どおりというか、すでに人が足りているということで助手への道は絶たれてしまい、その代わりにノーマンはフォノグラフレコードマガジン(PRM)の連絡先を僕に渡し、編集部のマネージャーに会うよう勧めてくれた。PRMは音楽に特化した雑誌で、タワーレコードなど全米のレコード店で配布されていたフリーペーパーだった。編集部に連絡してアポを取り訪ねてみると、スタッフ全員が締め切り真只中でてんやわんやの状態だったのに、僕が持ち込んだポートフォリオを見て、なんと持っていった写真をいきなり見開きページで使いたいと言ってくれた。しかも、その日のうちにミュージシャンの写真を撮ってくるよう依頼され、さらに驚いたことには翌週、僕は写真担当編集長に昇格していたのだった。

PRMのボス、マーティ・サーフ

マーティがPRMを始めたのは確か25歳のときだったと思う。PRMを創刊する前にユナイテッド・アーティスツ・レコードで働いていたので、音楽業界の隅々までネットワークがあり、業界の全盛期を飾る雑誌の編集者として最高の人物だった。しかしながら、優れたクリエーターであればだれしも煩わしい経営面については、メンタリティにやや問題があったかもしれない。煩わしさから逃れたかったのか、マーティの個室入口はレコードと本がいっぱいに詰め込まれた棚がドアがわりになっていて、めんどくさい人間が来るとその小部屋に隠れていたこともあった。そんなマーティが作る雑誌の記事や写真は、当時のミュージシャンのクリエイティブで自由な世界観を反映していて、いまでも素晴らしい雑誌だったと思う。アメリカの主要都市にあったタワーレコードや、その他の大型レコード店の多くで配布されていたことが、その証明でもある。

参考サイト:http://sayoktome.blogspot.com/2011/11/great-lost-pop-papers-3-phonograph.html

ロドニー・ビンゲンハイマー

PRMで働いていた仲間のひとりに ロドニー・ビンゲンハイマー という人物がいた。小柄なボディーがまるでアイコンに見えるような大きなキャデラックを乗り回していて、LAに来るミュージシャンはたいてい、彼の車に乗ってLAを案内してもらっていた。ロドニーがどうやってあれほど緻密な情報網を張り巡らし、街での出来事をすべて把握していたのか、いまだに神秘というしかない。

俳優のサル・ミネオに 「サンセットストリップの市長」というニックネームを付けられたほど、ロドニーはLAの接待部長として多くのひとたちをもてなし、その後パンク・ミュージックをラジオで流した最初の DJとして、LAの音楽業界きっての人気を獲得することになった。

フロー&エディ

フロー&エディ は、マーク・ヴォルマン(フロー=Phlorescent Leech)とハワード・カイラン(エディ)のふたりによるコメディ・ロックデュオだった。ふたりは1960年代後半に「ハッピー・トゥゲザー」など多くのヒットを飛ばしたタートルズの創設メンバーだった。

The Turtles – Happy Together

タートルズが解散したのち、フローとエディはコメディ歌唱デュオとなって、フランク・ザッパが率いるマザーズ・オブ・インベンションと一緒に演奏をすることもあった。またPRMに毎月コラムを書いていたので、コラム用のポートレート撮影で何度も彼らの家を訪ねる機会があった。音楽をかけながら大麻を吸い、新譜のユーモラスなレビューに耳を傾ける、楽しい取材だった。

Flo & Eddie in Frank Zappa’s 200 Motels
Flo and Eddie – Alice Cooper Joni Mitchell Yoko Ono Jimmy Page

リチャード・メルツァー

PRMには優れた寄稿者や個性的なジャーナリストがたくさんいた。中でもリチャード・メルツァーは、多くのミュージシャンから尊敬される礼儀正しいライターだった。でも気に入らない音楽やミュージシャンは容赦なく切りまくる厳しい一面も持ち合わせていて、僕はその姿勢に共感していた。

ジュニア・ウォーカー

ミュージシャンの撮影はたいてい大急ぎで撮らなければならない。なかでもこの写真は特に時間がなかった撮影のひとつだった。サックス奏者として高い評価を得ていたジュニア・ウォーカーの撮影に赴いたモータウンレコードは、LAでは超がつくメインストリートのひとつサンセットブルバードに面していて、隣の銀行の駐車場には大きなキャデラックがたくさん停まっていた。時間に余裕がなくてその駐車場で撮影することにしたのだったが、いまあらためて見ると、後ろに写っている車がみんな大きなキャデラックで、時代を感じてしまう。

だれか知らないひとの車の前でジュニア・ウォーカーを撮影。彼もまた自分の車という風なポーズをしてくれて、楽しい撮影だった。ジュニア・ウォーカーとオールスターズのアルバムは、いまでも大切なレコードのひとつだ。

エタ・ジェイムズ

エタ・ジェイムズの音楽が大好きだったから、撮影のためとはいえ彼女が僕のスタジオに来てくれたのは本当に光栄だった。その頃、LAの若者にはタイ料理が人気で、撮影中の話題といえば主にお気に入りのタイ料理店を紹介しあっていたように記憶している。

厳しい人生をサバイブしてきたエタは、健康にもたいへん気遣っていて、タイ料理はおいしいだけでなく健康的だということで好んで食べていたようだった。エタ・ジェイムズは有名なビリヤード・プレーヤーで映画『ハスラー』のイメージキャラクターにもなったミネソタ・ファッツの非嫡出子で、それも辛い過去の思い出だと話してくれた。思い出といえば、エタは当然スタイリストが用意されていると思い、まったくの普段着でスタジオに来たのだけれど、PRMのほうではスタイリストを用意していなかった。かといってエタ・ジェイムズの大きなからだに合う衣装など、スタジオにあるはずもない。そこで思いついて、たまたまスタジオにあったカーテンを彼女のからだに巻いて撮影してみることにした。雑誌に使われた写真は、スタジオのカーテンを巻いて撮ったカットだけれど、今回紹介する写真は本番前に何枚かだけ撮った、私服のエタ・ジェイムズである。

アル・スチュワート

AOR(Album-Oriented Rock)全盛期の名盤 「イヤー・オブ・ザ・キャット」(1976年)で知られるスコットランド出身のシンガーソングライター、アル・スチュワート。彼を撮ることになった経緯は、PRMの代表で編集長でもあるマーティがNYからLAに戻る飛行機の中だったと聞いている。意気投合したふたりは空港からPRMのオフィスに直行。撮影の依頼があったのはその日のことで、なのに撮影は翌日と伝えられた。一晩中パーティーでもしていたのだろうか? カメラの前のアル・スチュワートは非常に穏やかな紳士だった。

Heart

ハートはワシントン州シアトル出身のロックバンド。ニックネームはリトル・レッド・ツェッペリンだった。重く響くギターのビートがその由来だと聞いている。写真はボーカルとフルートを担当する妹のアンと、リズムギターとボーカルを担当する姉のナンシーの姉妹。撮影中ふたりは、バンドメンバーのひとりに腹を立てていたことをよく覚えている。前日のコンサートのあとに、メンバーのひとりが若い女の子をホテルに連れ込んだからだと言っていた。翌朝、メンバーに連れてこられた女の子が駐車場で泣いているのを見たアンとナンシー は、怒りが撮影中も収まらなかったようだったが、なんとか撮影は終えることができた。そのメンバーがバンドに長くいることはないと言っていたけれど、その後どうなったんだろう?

こういった行動は70年代の男性ミュージシャンに典型的なスタイルで、思いやりに欠けた刹那的な人間が多かったのも、時代背景を象徴しているのかもしれない。

ロン・ウッド

PRMの仕事でロン・ウッドのポートレートを撮るという幸運に恵まれた。ちょうどローリングストーンズのメンバーになった頃だったと思う。まだロッカーの心意気満々だった彼は、撮影中もイーストサイドビールを手放さず、安いドラッグの代表だったポッパーズをキメていた。

この撮影は、僕がヨーロッパからアジアを巡って日本にたどり着く旅の前の、最後の仕事となった。

ROADSIDERS’ weeklyより:https://roadsiders.com/