Bruce Osborn

once upon a time

もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 06  インドでの洗礼

色水を掛け合って春の訪れを祝うホーリー祭の日に、一緒に旅をしてきたビルを見送り一人旅が始まった

アメリカをボブとビルと3人で出発してから早くも4カ月が経過。ボブが帰国して2人旅になりそして、カルカッタでのペイントフェスティバルの最中にビルを見送っての一人旅。放浪生活にもだいぶ慣れての気楽な旅の始まりだった。

カルカッタの喧騒をあとにネパールを目指そうと思ったが、その途中にインド北東部のアッサムやダージリンを経由することにした。ダージリンという名前の由来は、チベット語の「雷が落ちた場所」 だそう。背景にヒマラヤ山脈があり街を取り囲むように茶畑の丘が続く。

仲間と一緒の旅は安心だったけれど、一人になってみると地元の人たちとの交わりも深まって、その地域の文化に触れたりすることも多くなり、周りの出来事に没頭することができるようになった。

訳も分からずに彷徨い歩いた20代の旅の経験は、僕の人生にとって大きな影響を与えたと今になって実感するけれど、なんといっても45 年前のこと。撮った写真のみが唯一の手掛かりで、どこに行って誰に会ったかなどは、ぼんやりとした遠い記憶の中に埋もれてしまっている。日記をつけていたらよかったと、今更ながら悔やまれる。

カルカッタからバスに乗り継いでたどり着いたのは、東ヒマラヤ山脈の端にあるアッサム州。 北側にブータンとチベットがあり東と南の国境がビルマ。バングラデシュも近い。

この地方はお茶とシルクの産地として有名なのと同時に、多くの紛争に巻き込まれたせいで、時代によってさまざまな呼ばれ方をしてきた歴史がある。
バックパッカーが泊まれるキャンプ場にたどり着き、日常生活にもっとも欠かせないトイレを確認。近くにあったので安心した。

敷地内にはほかにも古いホテルがあって、僕たちバックパッカーもそこで食事をすることができる。ホテルの宿泊客に旅行会社の社員のようなグループが視察のために宿泊していたせいか、豪華な料理がならび、ダンスや音楽などのイベントもあって、到着初日はにぎやかな夜を過ごすことができた。

刺激的だったデリー、バラナシ、カルカッタから離れて到着したアッサム州で出会った人たちは、都会と違って穏やかな人たちが多く心が癒やされた。
視察にきていた旅行代理店のグループを歓迎するために踊りを披露してくれた民族衣装を着た女性

翌日はサファリに行くことにしていたので早起き。草地、湿地のラグーン、密林がある動物保護区をゾウの背中に乗って移動。一角のインドサイ、水牛、ベンガルトラが生息しているというこの保護区では、ゾウに乗せてもらうのが一番の移動手段となる。さまざまな種類のアジアの鳥を見ることもできた。ガイドからは、野生で生き延びるアジアゾウの最後の生息地ということも聞かされた。世界最大かつ最も美しい大型ネコ科動物のトラも絶滅危惧種だと、ガイドはしきりに嘆いていた。

背中に乗りやすいようにひざまずいて乗客を待ってくれるゾウ 

旅行代理店の視察が終わってしまったためなのか、2泊目の夕食には娯楽のショーはなく、食べ物も残り物が並んでいた。次の夜も、その次の夜も…日を追うごとに食べ物の質が簡素になったが、それでもいままで食べていたものよりもはるかに豪華だった。しかし僕にとってなによりの楽しみは翌日のサファリ。朝が待ち遠しかった。

一角サイにとって希少かつ最大の生息地であるアッサム州
山頂まで数時間かかる日帰りハイキング。眼下にひろがる風景と真っ青な空を見て、努力した甲斐を感じた。

当時の旅の醍醐味の一つは情報源である旅行者に会うこと。オーストラリア、ニュージーランド、北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、南アメリカなど世界のあらゆる国から来る旅行者から、いろいろな国の事情や個々人の感想に触れることができた。

インドを好きか嫌いかは、人によってはっきり分かれるようだった。「ローマではローマ人のように振る舞いなさい」という諺があるけれど(日本で言う「郷に入れば郷に従え」)、風習や文化に適応できないと、ストレスになってその場所を好きになれない。幸い、僕は多くの国を旅しながらインドにたどり着いたので、習慣や文化の違いを素直に受け止めることができたけれど、 飛行機で突然この国に来てしまうと、刺激が大きすぎてショックを感じるだろうとも想像できる。

旅先で出会った2人の仲間と一緒にサファリを楽しむ。野生のゾウや他の野生動物が攻撃しようとした場合に備えて、ガイドは常に銃をかまえていた。

旅先で出会った シアトル出身のLouieは、懐かしい友人の一人だ(写真の左から2人目)。最初に会ってから数カ月間は、Louieというのが本名だと思っていたけれど、実は本名ではなく彼の家族が飼っている犬の名前だったと聞いて、笑いが止まらなかった。一人旅は自分自身を発見するための素晴らしい機会だ。彼は大好きなLouieを名乗ることで、今までの自分でない何者かになりたいと思っていたのではないだろうか。今でも、私にとって彼はずっとLouieだし、家族や友人のいる家に戻っても、いつまでもLouie であり続けられることを願っている。

動物保護区での昼間の楽しみはなんと言ってもサファリ。それがここに来た理由の一つだったが、それに勝るとも劣らないと言われて行った夜のショーも感動的だった。湖のほとりで見たのは夜空いっぱいに輝く星と、初めて見た光りながら飛ぶ虫の響宴。ホタルを見たことのなかった僕にとって、 ホタルの光と星が水面に反射し輝く様はあまりにも見事で、今でも鮮明に記憶に残っている。

次に目指すのはダージリン。

通りがかりのオレンジ売りからオレンジを購入。バスの中で食べたオレンジの味は甘さと酸っぱさが絶妙で格別。
子どもと若者の記念写真をLimcaの看板前で撮影。インド政府は当時、国内での多国籍企業を制限する目的でコカ・コーラの販売を中止していたために、入手可能な清涼飲料はレモンとライム風味のインド産のLimcaだった。
幸運と祝福を風が運んでくると言われている祈りの旗が、天高く張りめぐらされている。青は空、白は風、赤は火、緑は水、黄色は地。5色の旗にはそれぞれ意味が込められている。
5色の旗の写真を撮っていたら、地元の若者たちが集まってきた。写真を撮ることで出会いの幅が広がるのはありがたい。僕の出身地に興味を持っていろいろと質問攻めにあう。ネットなどがない時代、情報はこうして人から人に伝わっていったのだった。
残念ながら聞き漏らしたが、セレモニーのための正装だったのか? 大都市のファッションに負けず劣らずのセンスで思わず撮影!
アッサムの寺院で出会った兄弟。兄の眉間にあるのはTika(ティーカ)。色などは宗派や身分などによって異なっているが、今ではファッションとしての意味合いでつけている人もいるようだ。
ダージリンで会った友人。実家に連れて行ってもらったうえに、夜は地元の人が集まるバーにも案内してくれた。

ダージリンでの一日は、 パパイヤとヨーグルトの朝食で始まった。ヨーグルトはワイルドウォーター・バッファローのミルクから作られたということで少し癖があったが、カレー以外の食べ物が食べられたので満足。

友達になったチベット人が家族の夕食に招待してくれた。ヤギの肉が包まれている巨大な焼き餃子のような「モモ」が食卓に並んでいたので、久しぶりにカレー以外の食べ物を楽しむことができた。地元のバーに飲みに行くことになって、そこで黍(キビ)の実を発酵させて作る「トゥンパ」というアルコールを飲んでみた。注文するとマグと魔法瓶に入ったお湯が出てくる。マグの上までヒタヒタにお湯を注ぎじっと待っていると、「ブクブク」という音が聞こえてきた。この音が飲み頃のサインということ。飲み方も独特で、7~8割飲み進んだら魔法瓶のお湯を注ぎ足し、3回ぐらいおなじ方法を繰り返して飲む。アメリカもヨーロッパも、そして日本でも、どの国にも温めて飲むアルコールがあるのだという発見をした一日の終わりだった。

崖のようなところで自由に歩き回るヤギ。肉や乳製品として日常生活には欠かせない。
Darjeeling Himalayan Railways (DHR) :https://artsandculture.google.com/story/xQWhAU3YccQaIw
ダージリン・ヒマラヤ鉄道(Darjeeling Himalayan Railway)は、インドの東北部に位置し紅茶で有名なダージリン地方を走っている。線路幅がわずか61cmの、別名「トイ・トレイン」。石炭を燃料にして走る機関車は、まるで未知の世界へとつづく乗り物のようだった。世界遺産に登録されたのは1999年のことだそう。

ダージリンで数週間過ごすあいだに、たくさんのチベット人にも会うことができた。素朴で無邪気な彼らとの時間を楽しむ時間は、トイ・トレインに乗ったように僕を旅に誘ってくれた。

石炭店で働く労働者。
昨年11月にエジプトで開催された国連気候変動枠組み条約第27回締約国会議(COP27)では、2040年までに世界全体で石炭利用の段階的廃止などによる温室効果ガス削減をグテーレス国連事務総長が呼びかけたが、インドのジョシ石炭相は「少なくとも2040年まではインドにおいて石炭が重要なエネルギー源となり続ける」との見方を示した。機関車の燃料以外にもインド人の生活には石炭がまだまだ必要なようだ。