Bruce Osborn

once upon a time

もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 05 インドでの洗礼  ブルース・オズボーン(写真家)

冒険の旅を続けてきた三銃士の一人、いとこのボブは大学生活に戻るためにイランのテヘランを最後に帰国。ビルと私の二人旅となった。まるでバットマンと相棒ロビンかサイモン&ガーファンクルを連想させるような二人。アフガニスタンでは「不思議な国のアリス」のうさぎのように穴に落ちたと思うような経験を、インドでは、映画「オズの魔法使い」のドロシーがドアを開けた1シーンのような不思議な感覚の体験をした。

イラン、アフガニスタン、パキスタンと、保守的な生活習慣と地味な色になじみかけた後に訪れたインドは、まるでビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」を彷彿させる感覚。新しい音、色、匂いに満ち、イスラム教徒、シーク教徒、ヒンズー教徒、さらに外国人も混ざり合う混沌とした国。最初は、そんな多様性に順応するのに戸惑ったが、明るくカラフルなものと暗く神秘的なもの、穏やかさと騒々しさ、豊かさと貧しさ、静かな感情とエモーショナルでハイテンションに変化する感情に慣れ親しんでいくにつれて、自分の中で何かが変わっていくような気がした。

アムリトサル:

インドで最初に行った街は、シーク教徒の本拠地だといわれるパンジャブ州。アムリトサルにあるスリハリマンディルサーヒブという名前の黄金寺院は、インドや海外のシーク教徒の巡礼者にとっては最終目的の地。長い髪と立派なあごひげを蓄えるシーク教徒の男性に多く出会った。髪は神からの神聖な贈り物。切ることを禁じられているそうで、インドのカースト制度に反対する彼らは「Sarbat Da Bhala」(万人の福祉)を信じ、戦いの最前線に立つこともしばしばある。

カースト制:

古代からインドに根強く残っているとされるのがカースト制度。3,000年以上の歴史がある。この制度ではヒンズー教徒を4つのカテゴリーに分類し、その頂点に君臨するのがバラモンというグループで、教師などの知識を必要とする仕事についている人が多くいるそうだ。その下の階級がクシャトリヤで、戦士や支配者のグループ。続いて3番目の階級はヴァイシャという商人のグループ。最下位の単純な仕事をするシュードラというグループの、さらに下に位置するのがカースト制度外の5番目のグループ。ダリットと呼ばれ、いわゆる不可触賤民として分けられている。不当なシステムと批判されることがあるいっぽうで、こうした制度を克服して成功している人もいるという話も聞いた。

1858年から1947年にかけてイギリスの植民地だったインド亜大陸には、残虐な支配に苦しんだ歴史があるけれど、その置き土産のひとつとして英語を話せる人が多く、コミュニケーションは今までよりもはるかに簡単になった。インド全土に鉄道が建設され、国全体が鉄道システムで結ばれたのもこの頃。

旅費を節約しなければならなかった僕たちは、一番安い3等席でアムリトサルからデリーに移動。チケットを買うのも電車に乗るのも降りるのにも、とにかく大苦戦だった。順序良く並んでチケットを買う習慣がないために、チケット購入は人を押しのけて早い者勝ち。電車が駅に到着すると、降りる人と乗る人で押し合う大混乱。やっと乗り込んだ3等車の車内は、たくさんの人と荷物で隙間もない。電車が停まるたびに駆け寄ってきてはサモサなどの食品や、粘土製のカップに入ったホットミルクティーを販売する売り子たち。人と荷物でごった返す3等車での旅は、フレンドリーで親切な人たちと肌を寄せ合っての懐かしい旅の思い出だ。

デリーとニューデリー:

デリーでは外国人用の安ホテルに宿泊。バスルームがシャワー付きだったので感激。トイレもアフガニスタンよりは掃除が行き届いて快適だった。水道水が飲めると聞いていたので、久しぶりに水を飲んでみる。贅沢な食事をしようということになって、タンドリーチキンで有名なレストラン、モティマハルに行くことにした(https://motimahal.in/about-us/

ムガル帝国時代の城塞という赤い城(砦)や英国植民地時代の建築物を見て回った後で、ニューデリー市内にある5つ星のホテルに行ってトラベラーズチェックを換金。豪華なホテルやホテルの周りが近代的で整然とした豊かなインドの街並みだったのに比べて、僕たちが興味を持った旧デリーは修理屋、床屋、漢方薬屋、小さな神社、物乞いをする人や牛など、想像を絶するほどさまざまな人やものが溢れまくっていた。

外国人をねらって物乞いをする人も多くいたけれど、絶望的な環境の路上生活者の生きざまからは、どうしても目を背けることができなかった。インドに順応し、他人を自分の基準で判断しないことを学ぶにつれて、路上に人が寝ているのを見るのが普通のことのように思えてきたのも不思議だった。

ブータンへのビザを申請したところ取得までには1ヶ月かかると言われてしまい、ブータンを諦めて東を目指すことにした。

ジャイプール:

アンベール城はカラフルな建物が立ち並び「ピンクシティ」と別名を持つジャイプールの中心から11km程離れたところにある。ここで初めてコブラを操る蛇使いを見たが、撮った写真が見当たらずここで紹介できないのが残念だ。

街の中にあった大きな卍マークにも仰天。その横にWELCOMEと書かれた大きな垂れ幕を見た時はさらに驚いた。最初はナチスの大会をしているのかと思ったが、仏教のシンボルだということがわかってホッ!とする。

ジャイプールは宝石でも有名な街としても知られている。僕はムーンストーンを購入し、日本に着いた時に佳子に渡すために指輪を作った。

習慣や文化の違う国を旅するのは、予想外のストレスに見舞われることがある一方、見方次第では思いがけない発見につながることもある。

例えば銀行に行って換金するとき。長い列に並んでやっと順番が来たと思ったら、また次の列に並ばなければされる理不尽さに出くわした時などは、イライラするよりも、たくさんの人が給料をもらえる仕組みなんだろうと考えることにした。効率重視ではない社会の構造というか知恵なんだろう?

神聖な生き物とされる牛が、建物のロビーの真ん中に悠々と座っている脇を、牛を避けながら歩いている人たちの光景も印象的だった。

アグラ:

次の目的地はアグラ。インドで行きたかった場所のひとつ、タージ・マハルがある街だ。ムガール皇帝シャー・ジャハーンが妻マハルをしのんで建てた寺院には、人力車で行くことにした。寺院に行く前に、観光客向けのマーブルショップ、音楽ショップ、ギフトショップなどをひととおり見物したあと、目的地のタージ・マハルに到着。息をのむような美しさに圧倒されてしばし動けなかったのを覚えている。大理石で造られた霊廟を中心に両側に塔が建ち並び、まっすぐ霊廟へと続く池。池の両脇には静かな佇まいの木々。

ドームの中には皇帝と彼の妻の体が埋葬されている。大理石の墓に碑文が書かれ、周りを花の象嵌が覆う。ドーム内の音響について説明するパーフォーマンスだということで、ガイドが突然大声で叫んで度肝を抜かれたが、やがてその声は他の部屋にゆっくりと反響し、僕たちを包み込んで建物全体に響き渡るのだった。

満月の夜に再びタージ・マハルを訪れた。月明かりに輝くタージ・マハルをじっと見つめた神秘的な経験は今でも忘れられない。

ポール・ホーン『インサイド』

数年前、タージマハルの中で録音されたというポール・ホーンのアルバムを購入した。彼の演奏するフルートの音色とタージマハルの警備員の声がほどよくミックスされた素敵なアルバムだ。

https://www.youtube.com/watch?v=NiEUyC72GkI

ファテープル・シークリー:

アグラから約35kmほど離れたファテープル・シークリーの地名は、「勝利の都」という意味。当時、アクバルがグジャラート地方での戦いに勝利したためだそう。人影もまばらだったので、のんびりと何時間も写真を撮りながら散策することに。赤い砂岩のファサードに対比するような白い大理石の神社で、大きな6×6カメラを持ったデニスに会った。意気投合してお互いの旅の話を、時間も忘れて話し続けた。デニスとはその後も旅の途中で何度か会って親交を深めることに。Instagramなどのなかった時代。旅人からの情報が唯一の情報源だったころのこと。

バラナシ:

ガンジス川の左岸に位置する都市バラナシは、今まで訪れたなかで最もパワフルな場所のひとつ。訪れるすべての人に大きな影響を与える場所だ。

誕生と死を繰り返す輪廻転生の教訓はキリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、ジャイナ教徒、シーク教徒にとって同様の教義とされ、宇宙の創造を司る神のブラフマー、宇宙の維持を司る神のヴィシュヌ、宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神のシヴァというヒンズー教の三大主神の教えは、宗派が違っても共通する真理とされている。

世界で最も汚染された川のひとつとしても知られているガンジス川は、すべての宗派にとって聖なる地として崇められ、インド全土から集まる人々がこの聖なる水に体を浸し、汲みとった水を水差しに入れて家族のために持ち帰る。

死者を隔離して葬る西洋文化に比較して、この川のほとりでは毎日数百体が火葬されていて、この場所で死を迎えることは、輪廻転生の罠から逃れ涅槃を達成すると信じられている。空にオレンジ色の火柱が立つ夜、松の木が炎に弾ける音と蒸気とともに死が祝われるのだ。

サドゥー:

悟りを得るために世俗を捨て、瞑想や苦行を続ける僧をサドゥーという。バラナシで多く見かけた彼らは、まるでジャマイカのヒッピーやラスタメンのようでもあった。ある時、サドゥーからカルカッタに行くためのお金を乞われたことがあった。自分なりに言葉を探して丁寧に断ったつもりだったけれど、「あなたはバラナシを離れることはありません」と不吉なことを言われてしまった。気にはなったが、彼が伝えたかったのは「バラナシに来たたことは必ずあなたの一部となるでしょう」という意味だったと、あとから理解した。

サルナート:

バラナシでの刺激を浄化しようと、ビルと僕は数日間サルナートに行って少し休養をとることにした。バラナシからそれほど離れていないにもかかわらず、サルナートはまるで別世界のようだった。ここはブッダが悟りを開いた後に最初の説法を行った場所で、仏教徒にとって重要な場所。荷物が多かったので人力車で行くことにしたが、自分たちが車に乗ったら重さで運転手が地面から宙に浮いてしまい、気の毒なことをした。鹿のいる公園を通り過ぎると、中央の大きな仏塔を囲むように建つチベットや中国や日本のような雰囲気の寺院をいくつか見かけた。チベット人にはまだ会ったことがなかったので、会う機会が近づいているのかとワクワクした。

電車に乗ってガヤへ:

ガヤ行きの列車に乗った時の経験を思い出すと、今でも冷や汗が出る。

車内に入ってみると、あまりの混雑で座る椅子もないことに唖然。仕方なく床にわずかなスペースを確保して座ることにした。荷物を置く網棚にも人が横たわり、はみ出した乗客は電車の屋根にまでしがみついている。ガヤに到着したので列車を降りようとしたけれど、ホームで列車を待っている人が何百人もいたので、乗客は窓を閉めてドアにブロックをし、乗車しようとする人が乗れないようにしてしまった。ガヤで下車したかったのは僕とビルだけだったようで、二人が外に出るためには満員の乗客の頭の上を越えるしかない。そこで僕は見境もなく乗客を踏み蹴散らして、やっとの思いで外に出した。ところがカメラバッグとバックパックが何かにひっかかってしまい、いくら引っ張っても出てこない。乗車している人たちの助けを借りてやっと荷物を引っ張り出したのは、出発間際のこと。間一髪だった。ビルはきっと降りられなかったろうと心配していると電車が動き出し、線路の向こう側にビルを発見して一安心。ビルは反対側の窓から外に出たそうで、僕より賢い男だと感心させられた。

ブッダガヤ:

ガヤで一晩過ごした後、ブッダの足跡を辿ってブッダガヤに向かう。ブッダガヤでは僧院に滞在。宿代の代わりに、乾燥したひよこ豆から石やゴミを選別する仕事を手伝ったのを覚えている。選別したひよこ豆は夕飯の食卓に並んでいた。奉仕以外の義務として、朝早く起きて「南無妙法蓮華経」を唱えなければならなかった。僧院の僧侶とスタッフはとても親切だったが、信仰心が薄い僕らには朝のお勤めが負担で、一晩だけでおいとますることに。

ブッダガヤはサルナートと同じように、仏教徒にとってきわめて特別な地。ブッダが菩提樹の下で悟りを開いた場所として知られる。これがその菩提樹と言われる樹も撮影したのに、その写真も見つからないので、残念ながら菩提樹の下に座ったと証明することもできない。

カルカッタ:

カルカッタは「City of Joy」という意味のコルカタが語源だそうだが、ビルにとっては嬉しいことなどない街だった。旅の疲れとホテルのネズミに加えて、ガールフレンドから届いた手紙という三点セットの悪夢。「LAにすぐに戻らなければ、さようならです」と、帰りを待つのにうんざりという内容の手紙が、カルカッタの郵便局付で届いていたのだった。

即、帰国することにしたビルと一緒に空港行きのバスを待っていたのが、くしくも「ホーリー」の日。冬の終わりと春の訪れを告げるこの大祭は、悪に打ち勝つ善の勝利を意味し、人々が会い、遊び、笑い、忘れ、赦し、壊れた関係を修復する祝日である。屋上からペンキ入りの水風船が落とされたり、車からペンキ銃を撃ったり、通りがかりの人の顔にペンキを塗ったりする無礼講も許される祭りの日。真っ白だった僕の服も、顔も腕も瞬く間に青やピンクや黄色でカラフルに。バスの窓越しに外を見ていたビルの思いは計り知れなかったが、去っていくバスを見るのは、とても悲しかった。

ビルが去った後、頭のてっぺんからつま先までペンキで染まって、ワイルドな祝いに酔いしれる人たちに囲まれていると、人種の違いはもみ消されてインド人コミュニティの一員になったような気分になった。インドが大好きだという実感が改めて強まって、何が起こるのか予想できない、これからの一人旅にも自信が湧いてくるのだった。

https://www.youtube.com/watch?v=4_eEgJhsBMo