もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 日本へ、そしてロサンジェルスへ
ロサンジェルスのArt Center College of DesignでクラスメイトだったBillと、いとこのBobと僕の3人で旅をスタートしてから8ヵ月ぐらいたった頃、Bobは大学を続けるためにテヘランからロサンゼルスに戻り、Billはフィアンセから届いた「絶交状」に肝をつぶしてカルカッタからLAに帰ってしまった。 予想外の展開ではじめのうちは戸惑った一人旅だったが、自由で気ままな旅はそれなりに楽かった。ビルマでカメラを盗まれてしまったために、タイ南部の島々を訪れた1ヵ月間の写真記録がないのは残念だけど。

僕にとってこの旅の第一の目的は、2年前に帰国した佳子に会うためだった。ロサンゼルスからソウルまで40,000km。彼女が住む日本が刻々と近づいてくることがなによりも嬉しかった。最終目的地の日本がすぐそこにあって、明日佳子に会える!

悪天候のため日本到着の便が1日遅れるというアナウンスを聞いて慌てた。予期しないスケジュールの変更を知らせるために電報を打った。

1977年6月14日
予定から1日遅れて羽田空港に到着。1分でも1秒でも早く佳子に会いたいと胸が高鳴る気持ちに釘を刺すような出来事が僕を襲ったのは、空港のイミグレーションでのことだった。災難の原因は、この日のためにと決めすぎた一張羅。2年ぶりの再会のためにと、インドで作ってもらった明るい緑のダボダボズボンとタイ製の青いシルクのシャツとビルマで買った麦わら帽子に新品のサングラスとビーチサンダルという出立ちが、イミグレーションの職員には不審者としか映らなかったようだ。まるで運び屋か罪人扱いで、行った先々のスタンプが押されたパスポートをくまなくチェックされ、カバンからすべての荷物を出して検査された。
日本入国許可のスタンプをパスポートに押してもらうまでの時間がなんと長かったことか!
飛行機の乗客もパイロットやパーサーたちもいなくなり、静まりかえった空港ロビーで2年ぶりに果たせた感動的な再会だった。
ところが、さらなる惨事が待っていた。空港ロビーから駐車場に向かう途中で突然の豪雨に見舞われた。一瞬で池のようになった駐車場を、重い荷物を引きずってやっとのことで車にたどり着いた時にはまるでドブネズミのようだった。そんな二人に奇跡が起こり、車中に入った途端、魔法をかけたように雨が上がって青空が見えてきた。一張羅は水浸しになってしまったが、おかげで緊張感から解放された二人はしばらく大笑い。今となっては懐かしい思い出だ。

羽田空港から佳子が両親と住む甲府までの道中では2年半の空白を埋めつくそうと、二人は夢中でしゃべりっぱなし。そして甲府に到着!!両親に初対面という一世一代のイベントで胸が破裂しそうだった僕の心を救ってくれたのは、両親の温かい歓迎だった。
アジア諸国を放浪した後に訪れた日本の印象は、まるで母国に戻ってきた感じ。めでたく両親から結婚の許しを受けた後は国内旅行をして日本を満喫しながら、いつか日本に住むためのベース作りのために、雑誌社やレコード会社を廻ったり作品を持ってADに会いに行ったりした。

日本の滞在許可は3ヵ月間。その間に婚約者ビザが届かないと言われたので、結婚後の生活を整えるための仕事や家探しをするため、僕だけがいったんアメリカに帰国。1977年9月のLA空港着陸で、いちおう世界一周の旅が完結した。たくさんの国で、見知らぬ人たちと出会い寝食をともにし、溢れるほどの温かいホスピタリティーを受けた1年と半年。学ぶことがいっぱいの旅だった。

ハリウッドの丘には、出発した時と変わらずHollywoodと書かれたサイン。見慣れた光と懐かしい香りと喧騒に迎えられて、新しい生活への期待と覚悟を心に刻んだ。

1年半の間に起こった変化を吸収したいと思い、友人を訪ねたりハプニングな場所にも足繁く通った。その中で一番大きな変化を感じたのは音楽だった。今まで聞いたこともなかったパンク・ミュージックの台頭だ。ロンドン出身のセックス・ピストルズから始まったパンクムーブメントが音楽シーンを席巻し、ニューヨークではラモーンズ、ロサンゼルスでは、DEVO、X、Screamersのような破壊的な個性を持ったグループが誕生。ライブハウスには多くの若者たちが群がっていた。
この新しいムーブメントに巻き込まれるのに時間はかからなかった。

LAのパンクシーンの筆頭は、なんといってもScreamers。 彼ら流の哲学や主義でレコーディングをしなかったため、音源の資料が少ないのが残念だけれど、彼らがThe WhiskyやMasqueでライブをする日には、ファンがライブハウスの前に溢れかえる。 ボーカルのTomata du Plentyが観客をめがけてダイブをするたびに、会場中に金切声が響き渡ったものだった。

パンク・ミュージックはファッション界にも大きな刺激を与え、人気ファッションメーカーに対抗した過激なファッションが主流になった。数年前に流行っていた長髪は針のようにとがった髪型に変わり、やがてグラフィックデザイン、写真、その他のクリエイティブメディアに大きな影響を与えるようになった。洗練されたデザインや写真に変わって、荒々しいエネルギーの迸るようなイメージが好まれる時代。若者たちが、確立されたルールを破ろうと踠いていた。

刺激的な出来事にうつつを抜かしながらの毎日だったが、佳子が到着するまでにすることもたくさんあった。そのひとつが家探し。ちょうどその頃、世界一周の旅の一時期を一緒に過ごしたいとこのBobも、スタジオ付きの住まいを探していた。そこで3人が一緒に住める物件を視野に探してみると、目抜通りだったウエスタンブルバードとメルローズアベニューの近くに手頃な物件が見つかった。Bobのために作品を制作するためのスタジオとベッドルーム、そして僕は撮影できるスタジオスペースとベッドルームを確保。トイレとバスルームは共有だったが、早速その広々したアパートに引っ越して、佳子の来る日を指折り数えて待ち続けた。その後3人の共同生活は僕らが日本へ引っ越すまで続くことになった。

パンクムーブメントの対極にあったのは、カラフルなライトを浴びながら音楽に合わせて踊るディスコ。若者たちのタイプは大きく分けて2つに分かれていて、僕と仲間たちは間違いなくパンク側だった。

婚約者ビザが降りた佳子が晴れてアメリカに到着し、結婚の日取りなどを具体的に計画することになった。二人で相談した結果、式は僕の写真スタジオに決定。窓には撮影に使うカラージェルを貼って、教会のステンドグラスのような雰囲気を演出。友人のアーティストたちがいろいろな形に切り抜いた紙を壁に貼って、心のこもった手作りの結婚式場が完成。大学時代にルームメイトとして4年間一緒に過ごした親友の父親が牧師だったので、彼に儀式を執り行う司祭をお願いし、家族と友人全員が立会人という結婚式のスタイル。1978年3月18日に滞りなく式を終えた。

旅行前から仕事をもらっていたPhonographic Record Magazineのディレクターから雑誌のチーフ・フォトエディターを頼まれて生活も安定。フリーランスの仕事や、日本の雑誌社やレコード会社からの撮影の依頼も来るようになり、仕事も結婚生活も好調なスタートだった。

アパートの裏には広いコートヤードがあって、週末になるとビールやスナックを持って友達が集まり、バレーボールやパーティーをして過ごした。すべて懐かしい思い出だ。

パンクムーブメントはその後も衰えることがなかった。 中でも大人気だったのがmadness。The Whiskyでは、観客がステージに上がってバンドのメンバーと一緒に踊ったりするパーフォーマンスが人気だった。


Waren Zevonを僕のスタジオで撮影することになった。 スタジオに到着した彼を一目見て不機嫌だとわかった。超売れっ子だったから、一日中続いたインタビューで疲れ切っていたらしい。 そこで、撮影が終わったら破っていいと言ってバック紙に自分の名前と、新しくリリースしたアルバムに入っている曲のタイトル「Excitable Boy」と「Lawyers, Guns, and Money」を書いてもらって写真を撮ることに。 大成功だった! 撮影を終えた彼は上機嫌でスタジオをあとにした。


イギリスのシングルチャートで#1だったビートルズと#2のエルヴィス・プレスリーに次ぐ#3のポピュラーシンガーだったのがクリフ・リチャード。日本ではポピュラーなミュージシャンだったようだが、アメリカでの知名度は低かった。新曲の「I’m Nearly Famous」にヒットの願いを込めてPR用の写真をビバリーヒルズホテルのプールサイドで撮影したが、結局、願いは叶わなかった。


婦人画報社が出版していた『mc Sister』の依頼で撮影したスポーツブランドの写真。 LAに戻ってからも、日本の編集者やADから定期的に仕事の依頼があったので、たまに打ち合わせを兼ねて日本に行くこともあった。

Rodney Bingenheimerは、パンクやニューウェーブミュージックをラジオで流した最初のDJだったと思う。それと、KROQ局のRodneyが担当する番組「ROQ(ロドニー・オン・ザ・ロックと発音)」では、ミュージシャンをスタジオに招待する新しい試みを確立。臨場感のある放送スタイルが人気を博し、ブロンディ、ラモーンズ、Go-Go’s、Clashなどのバンドがこぞって番組に出演した。

人気DJだったRodneyがボーカリストとしてデビューしたのはLAの音楽シーンにとって衝撃的な出来事だった。昔のヒット作「リトルGTO」をリメイクしてレコーディング。Rodneyからカバー写真の撮影を頼まれた。彼にはミュージシャンの友人がたくさんいるので、レコーディングスタジオにはたくさんの有名人が押し寄せて賑やかだった。バックシンガーにビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンやブロンディのボーカルのデブラ・ハリーなどがいて、録音スタジオはまるでパーティーだった。


音楽的な基礎知識がなくてもパンクなら演奏できると思った人たちも多く、いわゆるプロではない人がステージでライブをしたりレコーディングをしたのもこの時代の特徴だった。70年代に活躍したロック評論家のパイオニア、Richard Meltzerもその一人。VOM (Vomit「吐瀉物」の略)というバンドを結成し、リードボーカリストとして挑発的な音楽で観客を威嚇。顰蹙(ひんしゅく)をかったあげくに観客のブーイングでステージから降るのが常だった。


VOMのシングルはこちらからも: http://natrecords.shop-pro.jp/?pid=176971557

Paul Greensteinはだれも思いつかないプロジェクトを思いついてしまう、不思議な才能を持った男だった。初めて会った頃はギターのレプリカを作ってバッジにしたり、中古のバイクを買って組み立て直して売ったりして生計を立てていた。 ある日「Atomic Caféに行こう!」と唐突に誘われたことがあって、なんとなく一緒に行ってみることにした。 夕方の4時から朝の4時まで営業をしているAtomic Caféは、リトルトーキョーのハズレにあって、若者がたむろするのに絶好の場所だった。 Paulはこのカフェをパンクの集まる場所にしようと考えたようで、パンク・ミュージックがジュークボックスから流れれば、深夜のカフェはミュージシャンとそのファンの集まる場所になるだろうというのが目論みだった。
「今の収入だけでは家賃が払えないからレストランを閉めようとしている」というオーナーのNancy Matobaに、「やめるのを数ヵ月待ってほしい」と懇願。さらに店内にあった古ぼけたジュークボックスのレコードでパンクを流したいと頼んだ。 Paulは時々理解できない行動をとるが、驚かされることも多い友人の一人なのだ。

オーナーのNancyは「Atomic Nancy」の愛称でみんなから慕われていた看板娘。 Paulの目論見は見事に的中して、「Atomic Café」にはBlondie、Devo、The Go-Go’s、X、Warhol、David Byrne、David Bowieなど有名ミュージシャンや著名人が続々と集まって来るようになった。ウエートレスがカウンターの上で踊っていることもあって、熱気ムンムンの深夜の無法地帯。午前4時の閉店時間になってもパンク・キッズたちは名残を惜しんでグダグダたむろしていた。 Atomic Caféでの人気メニューは日本食の丼物だった。
ニューウェーブバンドのThe Motelsが1979年にレコーディングした「Atomic Café」は、まさしくこのカフェを舞台に歌った曲である。



ある深夜のこと。 ダウンタウンの薄暗いチャイナタウンをPaulと一緒にブラブラ歩いていると、通りに面したレストランから大きなスピーカーの音が聞こえてきた。誰のパフォーマンスか気になってレストランのあったビルの2階に行ってみると、古ぼけたバーとライブができるようなステージがあった。パンクミュージシャンのライブ会場に使えると閃いたPaulは、早速、Madam Wongsのオーナーに連絡。パンク・バンドのライブ企画を得々と話し、最初は渋々だったオーナーから3か月間のトライアル期間の約束を取り付けた。
Madam Wongsのオープニングアクトの出演は、いとこのBob(写真右)と仲間たちのバンドで結成したYoung Adultsに決定。ど素人に近いメンバー構成のバンドがメインのイベントは心許なかったが、Rodneyが離婚騒動で憔悴した挙句に酩酊したビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを引き連れてあらわれ、会場は大いに盛り上がった。

Paulの予想は見事に的中。 その後Madam Wongsはロサンゼルスで大人気のライブ会場となり、THE POLICEをはじめメジャーなミュージシャンがライブをするようになった。 残念だったのは、その後ウェストハリウッドにも二号店を出すほどに繁盛したMadam Wongsがプロモーション会社に企画と運営を任せることになり、Paulがその職を去ることになったことだった。 Paulは天才だったのに!

