once upon a time 10

もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン オン・ザ・ストリーツ・オブ・ロサンジェルス

町中をうろつき回って面白いものを探すのが得意だった天才Paul(前回のシリーズに登場)のアイディアが的中し、Madam WongsでTHE POLICEなどメジャーなミュージシャンがライブをするようになった頃。パンク風情の若者が足繁く通っていたのがメルローズ・アベニューだった。すでに人気があったレコード店のAron’sやビンテージの洋品店Aaardvarksの周辺にはたくさんの新しいショップが連なった。Wacko/Soap Plant、Cowboys and Poodles、Vinyl Fetish、L.A. Eyeworks、Industrial Revolution…懐かしい店が次々にオープン。店内は刺激的なファッションで満ち溢れていて、今のようにネットなどない時代だったから、情報交換をするための大切な場所だった。ブラブラ歩いていると誰か知り合いに会える通りは、ただ歩き回るだけで楽しかった。

Hollywoodといえば映画の都! スターを夢見てこの町に集まってきた若者たちが好んだのは、映画のスクリーンに出てくるような流行のファッション。それにレコード産業の本拠地だからこそ醸し出された流行と、西海岸特有のビーチのファッションやサーフカルチャーの影響が色濃くミックス。ロンドンやニューヨークのパンクファッションの影響だけにとどまらず、南カリフォルニアの風と空気と燦々と降り注ぐ太陽の光をブレンドした、独自のファッションシーンがロスで繰り広げられた。

Steps into Spaceで行われた展覧会オープニングパーティーの風景。
50’sのビンテージを、新しい感覚で身につける。
パーティーの常連だった彼女とは、どこに行っても会った。
コスプレのはしり? Star Trek風のコスチュームで!
オープニングパーティーはアーティストにとってプロモーションの場だった。
俳優志望の若者にとっては大事な社交の場。
原宿でダンスしていた「たけのこ族」に負けず劣らずのヘアカラー。
学生たちの間で定着していたその頃のファッションは、学生ファッションの定番として今でも変わらない。
Paul Reubensが演出をした「Pee-Wee Herman ショー」は、メルローズアベニューにあったGroundling劇場で上演していた人気のショーだった。その後Paul Reubens本人が、子ども向けで人気があったテレビ番組「Pee-Weeのプレイハウス」にPee-Weeのキャラクターとして出演。子どもたちのスターとして君臨することになった。Tim Burtonが監督をつとめたPee-Weeシリーズの最初の作品「Pee-Weeの大冒険」にはPaul Reubens本人も出演している。
©Gary Panter illustration
Jollywall Graphicsは、アメリカ人のJimとフランス人の奥さんChristianが経営する店。メルローズアベニューでは溜まり場のひとつだった。彼らがデザインしたプラスチックのフラミンゴやペンギンなどのオブジェは大人気で、日本でも原宿のお店やデパートに並んでいた。
家が近所だったこともあって足繁く通った懐かしい店のひとつだったのが、日本人夫婦のMikeとJettaが経営するTiger Rose。日本の文化がまだ珍しかった頃の若者にとって、日本のファッションや文化の入口となった店で、店内には日本から輸入した布地や小物がひしめき合っていた。
Tiger Roseの隣にあったのが、パンクロッカーたちの溜まり場だったヘアサロン。オーナーはユーゴスラビア人のAtila。
Atilaのサロンの常連だったNeola。カツラをかぶって病院の看護師をする昼の顔と、パンク娘の夜の顔を見事に使い分けていた
Neolaと仲間たち
好奇心旺盛な僕の母がAtilaのサロンでヘヤーカットをしてもらった。
あまりの変身に驚いて笑うしかなかった母。ちなみにAtilaにカットしてもらったのはこの時一回きりだった
同じ日に勇気を振り絞ってAtilaのサロンでパンク風メイクにチャレンジしたMikeの奥さんJetta と佳子の二人
Phonograph Record Magazineで写真のチーフエディターとカメラマンをしていた頃、ロスではいくつかのFree magazineが創刊された。
中でも読者が多かったのは、Steve Samioffと Melanie Nissenの二人が始めたSlashという雑誌。誌面にはX、Screamers、Black Flag、The Go-Go’s、Devo、The Cramps.などに代表されるパンクロック・ミュージシャンの写真と記事が満載で賑やかだった。
左:Debra Harry(Blondie) photo by Melanie Nissen
右:Gary Panter’s drawing of character Jimbo
Slash誌を創刊したSteve Samioffは、その後 Stuff Magazineを創刊。メルローズ・アベニューのすべての店舗に置いてあって、僕らの情報源として大事な役割を果たしていた。無料で手に入れることができたことも魅力だった。クリエイティブな広告ページは斬新で、その頃のグラフィックデザイナーやイラストレーターは、作品発表の場としてこぞって編集者にアプローチしたものだった。
センチュリーシティにあった人気店Heavenからの依頼で撮った広告写真。Heavenは日本でも人気のブランドだったから、日本からの買い物客でいつも賑わっていた。
ロスではまだパンクブームが全盛だった1976年にLeonard Korenが責任発行者として創刊したのが、雑誌のWETだった。M&Coの社長Tibor Kalmanから「米国デザイン史上最も重要で優れたデザイン雑誌のひとつである」と評価されていたそう。34号まで続き1981年に廃刊されてしまったが、表紙は当時活躍した多くのタレントや著名人がかざり、多くのアーティストがこの雑誌に作品を発表できることを望んでいた。
左: llustration and design by Flamingo Terry
右:Jules Bates photo and Margaret Wynn illustration
https://www.wetmagazine.com/
Fiorucci店内のイベントスペースで行われたファッションショー風景。当時のファッション界を牽引したファッションデザイナー、Gregory Poe(左から2人目)と、オーストラリア出身のデザイナーRichard Tylerのショーだった。人気者のダンサーSpazz Attack(左から5人目)もモデルとして登場し会場は大盛り上がりだった。
いわゆる「可愛い」の元祖、Gregory Poeの服をスタジオで撮影。
瓦礫をバックにすることも厭わない、チャレンジ精神旺盛なSpazz Attack(前景)とのコラボレーションは楽しかった。SpazzはDEVOの曲「Satisfaction」にも出演。雑誌の取材やTVのコマーシャルの撮影で来日したこともあった。
DEVO “(I Can’t Get No) Satisfaction”
Richard Tylerのスペーシーなオレンジのジャンプスーツ。エッジの効いたデザインが特徴だったRichard Tylerの衣装はハリウッド女優のファンも多く、パーティーや映画のレセプションなどでよく見かけた。
オーストラリア出身のRichard Tyler作のPunk Cowboy!
イサム・ノグチのランタンをサンタモニカビーチで撮影。
Flipper’s Roller Boogie Palaceがサンタモニカブールバードにオープン。ベニスビーチの遊歩道では、猫も杓子もスケートを楽しんでいた頃。日本では光GENJIがローラースケートを履いて踊りながらステージで歌っていた頃。日本の友人から頼まれて撮ったレコードアルバムのジャケット写真も、そんな時代を反映している。
The “Fight back… Drive 55!”
イラン人質事件(1979年から1981年)で世界が不安定だった頃。若者たちの間でもイランのシーア派指導者だったホメイニ師(1900~1989)への反対運動は激しかった。石油を手段に経済戦争を仕掛けるのは卑怯だと呼び掛けるビルボードには「自動車運転者は時速 55マイルの制限速度で走ろう」と書かれていた。このポスターは、カリフォルニア州だけにとどまらずに広く全米に貼られていた。
ホメイニ師の超大型ポスターが風で道路に落下したのを発見した僕は、大急ぎでそのポスターを車に積んでスタジオに運び、Neolaを呼び出して撮影した。

政治や出身地などの所属意識よりも、個々人がどんな大衆文化に所属するかが重要だと信じて行動していたはずなのに、迷路に迷い込むことも多かった僕たちの世代。文学、映画、音楽、ファッションへの価値観や関心の傾向が今という時代の原点になっているとしたら、このonce upon the time連載であと少しだけ、自分たちの世代を振り返ってみたいと思います。

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