~もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 15
浅草でスタートした刺激的な日本の生活
引越し先の条件として、僕がどうしても譲れなかったのが、「スタジオのない生活は考えられない」ということだった。
当時の僕にとって、自分のスタジオは写真を撮るうえで不可欠な場所。
「カウボーイに馬が必要なように、写真家にはスタジオが必要だ」と、頑固に言い張った。
そんな僕のために、佳子が照明のデザインをしていた取引先だった会社の社長さんが、「会議室をスタジオとして使ってもいいよ」と申し出てくれた。しかも、同じビルの上の階に住居として使える空き部屋まであるという幸運!
こうして、スタジオも住まいも無事に確保することができ、1980年7月28日、僕たちはスーツケースをそれぞれ1つづつ持って、再び日本へ――
向かうは、浅草!!!

東京に来たばかりの頃、僕がよく出かけていたのは、六本木や渋谷、麻布、新宿といった、デザイナーやクリエイターが集まる街だったので、下町はあまり馴染みのない場所。
見るもの聞くものすべてが新鮮で、好奇心を刺激された。
しかも、スタジオ兼住まいは鷲神社が真正面にあって、住まいの裏手には「吉原」の名残を残した町並みと、すぐ近くには「山谷」が!
下町気質のご近所さんとのとのつながりも自然と深まった。
近所の居酒屋に入ると、当時はまだ浅草界隈では珍しかった外国人に興味津々の店主やお客さんたちから、
「どうしてこの店に来たの?」「日本には何しに?」「和食とかお酒は好き?」
と、次々に声をかけられ、気がつけばすっかり仲間入り。
お店の人たちが「下町のレミーマルタン」と愛称で呼んでいた焼酎をごちそうになったりしてすぐに打ち解け、“行きつけ”の店もできた。
居酒屋の常連さんたちとは道でばったり会うこともよくあって、僕たちもすんなりそのコミュニティの一員に。
行きつけのスナックの常連で結成されたボウリングチームに誘われて、月イチのボーリング大会のメンバーに加えてもらったのも、今となっては懐かしい思い出だ。

近所には、「ツケ払い」ができる寿司屋さんもあって、アメリカでは考えられなかったその仕組みに、いざという時は本当に助けられた。
スケッチブックなどを買いによく通った文房具屋のおじさんは、僕の名前の「オズボーン(おずぼん)」をもじって、短パン姿で店に行くと「半ズボンさん!」と呼んだり、『男はつらいよ』の寅さんが大好きだと知った薬屋の店主が、等身大の渥美清のパネルをスタジオに持ってきてくれたことも。
「外国人が近所に住んでいる」だけでちょっとした話題になった時代。
近所に住む人たちが面白がりながらも温かく迎えてくれたおかげで、僕たちはすぐに地域に溶け込むことができ、楽しくて幸せな時間を過ごすことができた。


散歩圏内にあったのが、浅草寺や「六区」というエリア。
寂れた「六区」に対し、浅草寺には驚くほどの人がお参りに来ていて圧倒された。
仲見世通りを一軒一軒覗きながら歩いたり、安くて美味しい食堂を探したり、路地裏の居酒屋に行って地元の人たちと雑談したりと、散歩がてらに浅草寺方面には足繁く通ったものだった。

僕たちが住み始めた頃は、「六区」は衰退気味で活気こそなかったけれど、大衆劇場、ストリップ劇場、屋台や大衆食堂が混在する昭和の匂いは色濃く残っていて、僕にとってはびっくり箱をひっくり返したような面白さにあふれていた。
松竹映画を専門に上映していたこの劇場も、再開発の波にのまれ幕を下ろしてしまった。

1910年に「日本館」として開業した浅草日本館は、日本初の本格的なオペラ劇場として知られていたそう。その後、活動写真館、レビュー小屋などを経て、僕がこの街に暮らしていた頃は成人映画専門の館になっていた。

何もかも新鮮だった下町文化のなかで、落語以外にも漫才や奇術など、いろんな芸人さんに出会えたのがこの演芸ホール。舞台も客席も、アメリカの会場とはまったく雰囲気が違っていたのが印象的だった。

演芸ホール近くにあったのが「ホッピー通り」と呼ばれる飲み屋街。まだ「ホッピー」のことがあまり知られていなかった頃に、下町ではすっかり定着していたのが「焼酎のホッピー割り」。当時、都心で遊んでいた人たちは、そんな飲み方の存在すら知らず驚いていた。

初めて「チンドン屋」を見かけたとき、その姿はまるで、剣を楽器に持ち替えたサムライのパロディのように映った。
白塗りの顔に派手な着物、そして独特な音楽を奏でる彼らの姿は、それまで僕が抱いていた“日本”のイメージを大きく覆すものだった。
日本という国は、多くのアメリカ人が思い描くイメージよりも、はるかに多様であることを、そのとき実感したのだった。

浅草にある「花やしき」は、僕のお気に入りの場所のひとつだった。
小さくて年季の入った遊園地で、特にあのガタガタと音を立てて今にも壊れそうなジェットコースターに乗るのはスリル満点。何度乗ってもドキドキした。
お化け屋敷や昔ながらの乗り物など、園内の隅々にまでノスタルジックな魅力が詰まっていて、それこそが「花やしき」らしさだった。

花屋敷に行くと必ず入ったのが「ビックリハウス」。素朴に驚ける乗り物が最高だった。
昭和50年代のデザインを復刻し、ピエロをイメージしたひょうきんな顔の外観は、どこか懐かしくてレトロな雰囲気。
今だに、記念撮影やウエディングフォトのフォトスポットとして人気だというのも納得する。

浅草散策の終着点は「デンキブラン」で知られる神谷バー。
このバーの歴史は、東京に電灯が灯りはじめた1880年代にまで遡ると聞いている。
「デンキブラン」は、その時代に生まれたカクテルで、当時は目新しいものに“電気○○”と名づけるのが流行していたことから、この名前がつけられた。
しかもこのお酒、かなりアルコール度数が高く、飲んだときのビリッとくる感覚が“電気”のイメージと重なる――そんなことも、この名前にぴったりだった理由のひとつとされているそう。

都心とはまったく違う下町の文化、そして異邦人を温かく迎えてくれる友人たちのおかげで、浅草のことが大好きになった。
仕事仲間に「浅草に住んでるよ」と話すと、「えっ、浅草って…東京なの?」と笑われることもあった。
実際、下町に足を運んだことがない人も多かった時代。
でも、一度僕たちの家に来て浅草や六区界隈を散策すると、みんな口をそろえて「浅草、いいね!」と言ってくれ、頻繁に遊びに来てくれるようになるのだった。

自分のスタジオを持てて、写真家として何より嬉しかったのは、背景画を描いたり衣装を作ったり、撮影前にじっくりライティングを整えたりできたこと。
いつ撮影依頼が来ても対応できるように、スタジオや暗室を準備する毎日。
幸運なことに、期待はやがて現実になって「浅草にアメリカ人の写真家がいる」という噂が広まり、たくさんのメディアからの取材を受けるようになった。
インターネットのない時代。
口コミで広がった「アメリカ人が浅草に住んでいる」という噂が膨らんで、「浅草は東京のソーホーになるかも?」という記事までが雑誌に掲載された。

『プレイヤー』誌からの取材を受けて記事が掲載された。
『プレイヤー』は1970年代~1980年代にかけて、音楽好き、特にバンドマンやギタリストたちの“バイブル”のような存在だった。その後、中表紙ので作品の連載もスタートする。


『平凡パンチ』からも取材を受けた。以下は、記事の巻頭に綴られていた文言ーー
黄色く塗られた地下鉄・銀座線は東京でいちばん古いサブウェイだ。その終着駅は渋谷と浅草。かつて、庶民芸能のすべてがここから萌芽し、飛ぶ鳥を落とす勢いで賑わった浅草には閑古鳥が鳴き、一方の渋谷には多くの若者の目が注がれるパルコ文化が花開いている。衰退を続ける浅草、しかしいま、その衰退ゆえに生まれる新しいムーブメントがある。ミーハー、ナンクリとは明らかに異なる人種が姿を見せつつあるのだ・・・。

都会的なァッション誌『anan』からも取材があった。タイトルは「浅草在住、ロスの寅さん」。
浅草に住んでいる外国人カメラマンということだけで珍しがられた時代だった。

ロサンゼルスでは主に音楽業界の仕事をしていたけれど、クリエイティブでファッショナブルな東京に来たからには、新しいことにどんどん挑戦したい――そんな情熱に燃えていた頃のこと。
ある日、大好きだったファッション誌『流行通信』から撮影の依頼が舞い込む。
来日後、初めての仕事だった。「歓喜極まる」とは、まさにこのこと!
天にも昇るような気持ちだった。
まず、自分の撮影イメージを描いて編集者に提案。
モデルの手配に加え、撮影に必要なイラストを描いてくれるイラストレーターの依頼もお願いし、撮影前日、セットに使う材料を探しに渋谷の東急ハンズへ。
店内を歩き回っていると、思いがけず横山泰介さん(通称:泰ちゃん)と再会!
泰ちゃんは、ロサンゼルスの友人から紹介された、ハリウッドランチマーケット(聖林公司)のボス、ゲン垂水さんのつながりで、一度だけ会ったことがあった。
ちなみにハリウッドランチマーケットの歴史は古く、アメリカ古着がまだ珍しかった1970年ごろ、千駄ヶ谷に店をオープン。1979年に現在の代官山に店舗を移転。その後はオリジナルブランドをはじめ、アメカジにとどまらず世界中からセレクトしたアイテムを展開してきた老舗ショップだ。
ハリウッドランチマーケットの歴史:https://otokomaeken.com/brand/148527
懐かしい友人に出会ったような気分で、思わず「明日撮影があるんだけど、アシスタントしてくれない?」と声をかけると、「いいよ!」と快く引き受けてくれた。
この日をきっかけに、泰ちゃんは約5年間、僕のアシスタントを務めてくれることになり、撮影があるたびに、実家の鎌倉から撮影現場に駆けつけてくれた。
そして今でも、彼は僕にとって大切な友人のひとりだ。

『流行通信』の編集者からは「コンセプトは決めていないから、やりたいことを自由にやっていいよ」と言われ、創作のすべてを任される。そこで僕は、以下の内容を依頼した。
1)男性モデルを1人
2)黒いスーツ(ペイントしてもOKなもの)
3)イラストレーターとヘアメイクの手配
4)ギャラリー風の背景を作るための絵(スタジオで制作)と額
早めに欲しいと伝えていたスーツが届いたので、すぐにペイント開始。
撮影当日までに乾くよう入念に準備した。
ヘアカラーがまだ一般的ではなかった時代だった頃のこと。
髪はポスターカラーで塗るという、乱暴だけどワクワクする冒険を試みたり。
撮影の背景画を手がけたのは、当時イラストレーターだった川崎和男さん。東芝を退社後、「川崎和男デザイン室」を立ち上げた頃で、僕にとって貴重な出会いだった。
そして撮影前夜。
実験を兼ねて友人たちを招き、髪をペイントするパーティーを開催!
全員の仕上がりは想像以上にかっこよく、翌日の撮影にも自信をもって臨めた。
派手派手の髪の毛のままパーティーは解散!
ハチャメチャだけど最高の夜だった。
唯一の後悔は、その光景を写真に残さなかったこと。
【後日談】
「タクシーに乗車拒否された」「枕が染まって怒られた」「会社で騒ぎになった」など、数々の伝説(?)も生まれた。

川崎さんにはモデルのスケッチ画に加えて、「ラウンジチェアの上に横たわる人体の輪郭画」も描いてもらった。背景のペイントとセットは僕が担当した。
ヘアメイクとして参加してくれたのは大村高好さん。以来、何度も仕事をご一緒する機会に恵まれた。青山のヘアサロン「BANGS」のオーナーで、雑誌・広告・CMなど幅広い媒体で活躍するヘア&メイクアップアーティストだ。
「美容」の枠にとらわれない自由な発想が持ち味で、バレエダンサーの熊川哲也さんや、歌舞伎役者の中村勘太郎さん・七之助さん兄弟など、多くのアーティストとコラボレーションを重ねてきた。近年は体調を崩した時期もあったけれど、後輩の育成にも力を注ぎつつ、現役で活動を続けている。

神社のしめ縄や玉串などに取り付けられ、神聖な場所を示すと同時に、邪気を払うという意味がある「紙垂(しで)」を作って天井から吊るしたセットも用意して撮影をおこなった。
この撮影の衣装も、自分で作った。素材は黒いビニール袋(ゴミ袋)とゴムチューブ。
モデル1人だけを予定していた撮影だったが、「モデルが3人いたらもっと面白いかもね」という編集者のアイディアを採用!
その結果、僕とヘアメイクの大村くんも急きょモデルとして参加することに!
最終的に採用されたカットは、アシスタントの泰ちゃんがシャッターを押したものだった。

浅草の路地裏にあった粋な居酒屋「番所(ばんしょ)」のオーナーで、バーのマスターとしてだけでなく、旅館やバー、レストランの内装デザインや広告の仕事まで手がける多才な方だったのが山田さん。知り合いの幅も驚くほど広く、浅草以外にも、根津や新宿二丁目界隈のバーなど、今では全部思い出せないほどたくさんの場所を案内してもらった。
面白い場所や個性的な芸人たち、そして下町文化に親しむことができたのは、ひとえに山田さんの存在あってこそだと断言できる。
すでに故人となられたけれど、山田さんは僕にとって浅草の師であり恩人であり、下町文化の真髄を教えてくれたかけがえのない存在だ。
店を次々とハシゴし、気づけば朝日が昇っていた……そんな夜もしばしばあった。

新宿の一角にある狭く入り組んだエリアにあったのが、日本冒険小説協会の公認酒場「深夜プラス1」。コメディアン、俳優、書評家、そして作家として知られる内藤陳さんがマスターだった。
バーが密集した迷路のようなこの地域は、60年代の東京アンダーグラウンド文化の雰囲気が色濃く残り、まるでタイムカプセルのようだった。
写真は月刊誌『サイゾー』のシリーズ「一徹」で取材した時に撮影した一枚。

「番所(ばんしょ)」の顔といえば、山田さんの奥さま。カウンター越しに、いつも優しい笑顔でお客様を迎えてくれた、看板娘!
子どもが生まれてからも子連れでよく訪れ、親子共々お世話になった。
山田さんが亡くなった後もしばらくお店は続いていたが、奥さまご自身も体調を崩され、最終的には店を閉じられたと聞く。
葉山に移ってからはすっかりご無沙汰しているが、閉店後のお店あたりの様子をいつか見に行ってみようと思っている。


大衆演劇を専門に上演していた劇場で、庶民的な娯楽の場として昔から親しまれていたのが「木馬館」。
最初に木馬館の写真を撮りに行った時に、ちょうど公演中だったのが「新青座 中村雄次郎劇団」。座長だった中村雄次郎さんと、まだ高校生だった娘さんの梨香さんとその時会ったのがご縁で、お二人の親子写真を撮ることができた。
数十年後、女優志望だった梨香さんと再会。
彼女が声優・松本梨香さんとしてアニメ『ポケットモンスター』のサトシ役を務めていると知り、本当に驚いた。
写真は、後に写真集『OYAKO』の表紙にも使用させてもらっている。


「木馬館」は、芸人だけでなくミュージシャンのライブなども見る機会があった。
若手だった所ジョージさんや、なぎら健壱のライブもあり、アメリカから来たばかりの僕にはとても新鮮で、強く心に残るショーだった。
この出会いがきっかけとなって、所さんにはレコードジャケットやポスター用の撮影で、僕のスタジオに来てもらう機会があったり、なぎらさんは僕がロサンゼルスにいた頃に撮影した写真をアルバムのイメージ写真として使っていただいたりしたこともあった。




浅草芸人のレジェンド、パン猪狩さんこと「パンちゃん」をスタジオで撮影。
パンちゃんは、かつてフランス座を拠点に活躍していた芸人たちの中でも異彩を放つボードビリアン。ユニークな芸風に加え、時にはわかりにくいけれどクセになるブラックユーモアを持ち味としていた。
その独特の魅力に惹かれ、僕は作品のモデルとして何度か登場してもらった。
一緒に写っているのは、ロサンゼルス在住のアーティスト DOT & VIV に制作してもらったオリジナルのマネキンだ。

浅草でもうひとり忘れられないのが、バー「Sting」のマスターだった片山喜康さん。
大学卒業後の職歴は、バー経営、編集、さらには随筆や脚本など――ほんとに幅広い顔を持つ人だった。
僕が浅草に住んでいた頃の「Sting」は、ニューウェーブ音楽好きの若者たちのたまり場。浅草の歴史に詳しい文化人やミュージシャンとたくさん出会うことができた場所でもあった。



僕たちが住んでいたビルの真ん前にあったのが、酉の市で知られる鷲神社。
祭り好きでパーティー好きの僕にとっては、これ以上望めない、まさに「格好の棲家」なはずだったが、隣近所との距離が近い下町の家並みでは、大騒ぎ(バカ騒ぎ!)をすると近所迷惑!
パーティーが盛り上がりすぎて、翌日お隣に謝りに行ったことも何度かあった。
ところが、お酉様の日だけは別。
無礼講!!
なんといっても、我が家は祭り会場のど真ん中だから。
毎年11月の酉の日だけは、どんなに騒いでも問題なし!!
というわけで、
散々飲んで食べて踊ったあと外に出ると、家の前はお祭りの熱気でムンムン!
そこで出会ったのが、熊手売りの大庭秀一さんだった。
以来、毎年、大庭さんの店で熊手を買うのが僕の恒例行事になった。

初めて買った熊手に大興奮!「毎年少しずつ大きなものに買い替えるもの」ということを知ったのは後日のこと





「なまぬるいって、いったい何?!」
――そういう僕の疑問に答えるべく、1984年12月31日の夜、当時六本木にあったクラブ Climax を借り切って開催したのが、その名もズバリ「生ぬるいパーティー」だった。
写真家やイラストレーター、画家たちは“生ぬるい作品”を持ち寄り、ミュージシャンは“生ぬるい音楽”を演奏!
クレイジーなアイディアに仲間たちが楽しんで参加してくれ、最高のパーティーになった。





「生ぬるいパーティー」に加えて、この年の出来事として特筆すべきは当時LAで大活躍だったパンクバンド Go-Go’s と、僕が一緒に写った写真が『宝島』12月号の表紙を飾ったこと。
撮影したのも僕だった!
