~もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 16
東京ワンダーランド

「写真家にとってスタジオは、カウボーイにとっての馬のようなものだ」――そんなことを豪語していた僕にぴったりな住まい兼スタジオのスペースが見つかって、浅草での生活がスタートすると、雑誌関係者や音楽業界、広告会社の人たちが打ち合わせと称して頻繁に訪れるようになった。「浅草がソーホーに!」とまで紹介した雑誌もあったほど。
せっかくたくさんの人が来るんだからと、スタジオに来る人たちのポートレートを撮ることを思いついた。それも、ただのポートレートではなく“爆笑ポートレート”。
笑えなかった人は、バケツ一杯の水を頭からかけられるという体罰つき。僕自身も笑えずにびしょ濡れになったことがある。



東京はどこへ行っても、僕にとってはまるでワンダーランド。
カメラを片手に街を歩き回っているうちに、高層ビルがロボットのように見えてきて――そこから「ロボット・ビルディング」シリーズが始まった。
写真をコピーして編集者に見せたところ、『Typographics』誌が掲載してくた。

仕事の合間でハマったのが「パチンコ」。
友人と待ち合わせたり、打ち合わせで集合する場所もパチンコ屋さん。スタジオにもパチンコ台を2台設置していたほどのめり込みよう。
仲間を誘ってはパチンコ三昧。「勝った人がみんなに奢る」というルールがいつの間にか定着し、パチンコの後は近くの居酒屋で飲んだり食べたりして盛り上がった。

「まさに目から鱗だ!」と思ったのは、日本のレンタルスタジオを初めて利用したとき。あれほど自分のスタジオがなければ成立しないというのは撤回! 自分のスタジオを使えば、もちろんレンタル料もかからず、朝から晩まで自由に使える利点があり、撮影セットの準備にも、時間をかけてじっくり取り組むことができた。
でも、撮影の規模によってはもっと広いスペースが必要なこともあり、そんなときにレンタルスタジオの便利さを痛感。時間内に撮影を終えなければならないという制約はあるものの、ストロボや照明機器は充実、セッティングを手伝ってくれるアシスタントも常駐。さらにスタイリスト、ヘアメイク、時にはセットデザイナーまでがチームとして協力してくれるありがたさ。アイデアがスタジオの広さに制限されることなく、分業で作業を進めて、より自由にイメージを広げることができました。
レンタルスタジオを使うようになったことで、プロフェッショナルなチームと協働する喜び、そして広い空間で撮影するダイナミックな感覚が、僕のイマジネーションを大きく刺激してくれた。
その頃から始めたのが、イメージをスケッチブックに描いてプレゼンする方法だった。
クライアントがそのスケッチを気に入ってくれたら、どう実現するかをスタッフたちと一緒に考えた。もともとコラボレーションで作品をつくるのが好きだった僕は、アイデアが浮かぶとすぐにスケッチブックに描き留めていた。


100冊以上も溜まったスケッチブックたちは、いつか日の目を見る時を今も倉庫の片隅で待っている。



サンシャインシティのポスターは、当時活躍していたデザイナー兼イラストレーターの西哲(サーチン)さんとのコラボレーションで制作した。
彼の独特の色彩感覚とユーモアのあるデザインが、僕の写真をさらにパワフルにしてくれたように思う。
ポスターという“街に出る作品”を、気の合う仲間たちと一緒に作り上げる――そのプロセス自体が、楽しくて刺激的な体験だった。

それぞれのプロの力を結集し、真っ白なスタジオにセットを組んで作品を創り上げる、そんな貴重な撮影の機会を得られたのは、本当に幸運だった。

今ではデジタル化で作業が手軽になったけれど、星空のセットを組んだり、モノクロで撮影したり、仕上げに油絵具で人工着色(人着)を施したりと、イメージに合わせてさまざまな技法を試すのも楽しみだった。

同じく西哲(サーチン)さんとのコラボレーションで、ラフォーレ原宿のポスターを制作。東京のファッションカルチャーが勢いよく花開いた時代で、街全体がまるで巨大なキャンバスのように感じられた。
ファッションとアート、写真と広告が次々に交差していく現場に立ち会えたことは、この時期に日本で仕事ができた幸運を改めて実感させてくれた。創作の現場で受けた刺激は、今でも鮮やかに心に残ってる。
ミュージック・シーン

1982年1月、新宿・石橋楽器店のオープンキャンペーン広告の撮影で、ニューヨークへ行くことになった。
撮影したのは、オペラ風パンク歌手のKlaus Nomi、Joey AriasとJanis Budde のStrange Partyのメンバー、そしてヴォーカリストのMarlyn。
ユニークな容姿、美しい歌声、そして卓越したステージセンスを備えたKlaus Nomiの印象は、まるで“パンク版の鉄腕アトム”のようだと思えた。
当初は「ニューヨークの街を背景に、ピンクに塗った象とKlausを撮影する」という突飛なアイディアを考えていた。今思えば動物愛護団体に非難されるようなクレイジーな発想。しかし幸か不幸か、真冬の寒さとタイトなスケジュール、限られた予算など、調整が難しく断念。
結局Klaus Nomiの撮影は、開店前のナイトクラブで行った。ピンクの象の夢は叶わなかったけれど、代わりにピンクのダルメシアンとMarlynの撮影が実現した。



Joey AriasとJanis Buddeはソーホーのロフトで撮影。滞在は短期間だったが、当時のニューヨークはパンクムーブメントの全盛期。地下鉄の車両にはグラフィティアートがびっしり描かれ、街全体が“パンクしている”ような時代だった。
滞在中のすべての時間が、興奮に満ちていたのを今でもはっきり覚えている。
当初は「ニューヨークの街を背景に、ピンクに塗った象とKlausを撮影する」という突飛なアイディアを考えていた。今思えば動物愛護団体に非難されるようなクレイジーな発想。しかし幸か不幸か、真冬の寒さとタイトなスケジュール、限られた予算など、調整が難しく断念。
結局Klaus Nomiの撮影は、開店前のナイトクラブで行った。ピンクの象の夢は叶わなかったけれど、代わりにピンクのダルメシアンとMarlynの撮影が実現した。

1910年に「日本館」として開業した浅草日本館は、日本初の本格的なオペラ劇場として知られていたそう。その後、活動写真館、レビュー小屋などを経て、僕がこの街に暮らしていた頃は成人映画専門の館になっていた。



Strange Partyは、1970年代後半にニューヨークで大活躍していたバンド。Joey AriasとJanis Buddeはこのバンドの一員。Klaus Nomiとのコラボレーションや、Club57でのパフォーマンスを通じて注目を集めた。2003年、Joeyはラスベガスに移り、Cirque du Soleilの作品として知られる『ズーマニティ(Zumanity)』の主演を務める。





1970年代から80年代初頭にかけて活躍し、音楽シーンはもちろん、ファッションやカルチャーにも多大な影響を与え、海外でも活躍した伝説のテクノポップバンドがPlastics。
メンバーは、イラストレーターのトシこと中西俊夫(ボーカル/ギター)、
スタイリストのチカこと佐藤千賀子(ボーカル)、
グラフィックデザイナーの立花ハジメ(ギター)、
作曲家でプロデューサーの佐久間正英(キーボード)、
作詞家で音楽ディレクターの島武実(リズムボックス)の5人。
それぞれが異なる分野で活躍する強烈な個性の持ち主で、彼らの存在そのものが時代の空気を体現していた、僕の大好きなバンドのひとつだった。
この頃はバンドの演奏を聴きにいったり、ナイトクラブに行って交友関係を深めたりと、毎日が刺激的であっという間に時が過ぎていった。
多くのミュージシャンたちと出会い、アルバムのジャケット撮影や雑誌のグラビア、ポートレートの撮影など、仕事の機会にも恵まれた。
「浅草に住むアメリカ人の写真家」ということで、雑誌に取り上げられることも多く、忙しく充実した日々を夢中で過ごしていたのだった。

リードギター兼作曲家の鮎川誠を中心に、1970年から福岡を拠点に活動をスタートしたブルースロックバンドに、ボーカルのシーナが加わり1978年に結成されたのがシーナ&ロケッツだ。
公私を通じて親しくさせてもらったので、ふたりが亡くなってしまった今も、喪失感が心の奥深くに残っている

1979年、Phewはバンド「アーント・サリー」のメンバーとしてデビュー。バンド解散後はソロ歌手として活動を開始し、日本を代表する女性ロックシンガーとして知られるようになる。1980年には、坂本龍一プロデュースによるシングル『終曲(フィナーレ)/うらはら』を発表。当時ロサンゼルスに住んでいた私たちの家でもこのレコードはよく話題になって、遊びに来た友人たちに聴かせると皆がすこぶる良い反応を示し、Phewの独特で不思議な世界観にすっかり魅了されて、瞬く間にファンになったものだった。
そんなPhewも一児の母になって、「親子の日」の撮影会に親子でスタジオに来てくれたこともあった。今も、展覧会の会場にも顔を出してくれたり僕のブログを読んでくれていたり、互いの活動をいつも気にかけ合う大切な仲間だ。

実験的で個性的なアーティストが次々と登場していた時代。音楽だけでなく、アートディレクションやビジュアル面にも新しい風が吹いていた。パスレコードに所属していた『グンジョーガクレヨン』の印象も、当時の社会現象を象徴して、自由で刺激的な発想という印象が強かった。

『突然ダンボール』もパスレコードに所属していたバンド。
今は亡き蔦木栄一くんと弟の修一くんの兄弟で構成されたこのユニットは、アングラとポップが交錯するような、当時の東京カルチャーの“混沌と自由”を象徴する存在だった。
撮影を通して感じたのは、彼らの音楽は“音”だけでなく、“生き方”そのものだということ。それを強く実感させられた撮影だった。


The Kingtonesのアルバム撮影を担当したのは、イラストレーターとして、「ソラミミスト」としても知られる安斎肇さんがSMSレコードのアートディレクターを務めていた時期のこと。
「SMSレコード」は、1978年に渡辺プロダクション、トリオ、西武百貨店の3社によって設立されたレコード会社で、音楽だけでなくデザインや幅広いカルチャーが交差する、自由でクリエイティブな空気に満ちていた。
安斎さんとは多くの仕事をご一緒して、この写真もその数あるコラボレーションの中の一枚だった。



ジャパンレコードから発売された、桑名晴子さんのレコードジャケットを撮影。アートディレクターは、その後アメリカに移住し1980~90年代に全盛を迎えたアパレルブランド「Esprit」のアートディレクターとして大活躍した八木保さんだった。

この頃すでに、僕の中では“超タレント”としてランキング上位に入っていた所ジョージさん。僕が提案するクレージーなアイデアにも、いつも笑いながら楽しそうに乗ってくれた。
撮影現場では、ユーモアと遊び心がいつも溢れていて、彼の持つ自由な発想にたくさん刺激を受けた。

博多から上京し、デビューを目前に控えていた頃のThe Rockersを撮影。陣内孝則さんをはじめバンドメンバー全員の撮影をしたのだが、そのときのフィルムはデザイナーかプロデューサーに渡したまま戻ってこなかったので、手元にあるのは、全員に書いてもらったサイン入りのアルバムのみ!

「Rats & Star」とグループ名を変更する前、彼らは「シャネルズ(CHANELS)」として活躍していた。
ロサンゼルスの伝説的ライブハウス「The Whisky」でも演奏、黒いスーツとサングラスという印象的なスタイルが受けて、LAの音楽好きが会場いっぱいに集まった。

音楽好きの僕にとって、レンタルスタジオで唯一足りなかったもの、それは「音楽」だった。
当時、スタジオに備え付けられていた音響システムといえば有線放送だけで、流せる曲の選択肢はごく限られていた。そこで、スタジオで撮影をする時にはカメラ機材と一緒に必ずカセットプレーヤーと、お気に入りのカセットテープを持ち込んだものだった。
撮影中に自分の好きな音楽を聴きたいし、音楽は撮影のムードメーカーとして欠かせない大切な要素。その音楽がないというのは、僕にとってはストレスでしかなかった。
音楽は被写体となるモデルのためであり、そして何より自分自身のため。
カメラマンと被写体が少しずつシンクロし、感情と感情が交差していく、その瞬間をつくるための媒介。ミュージシャンがジャムセッションをしているような感覚だった。
僕にとって音楽は、大切な“機材”のひとつなのだ。
もうひとつ、大事にしていたのが「撮影はカメラマンだけがするものではない」という考えだった。
スタジオにいる全員が参加してこそ、一枚の写真が完成する。
そう信じていた僕は、撮影中、アシスタントやスタイリスト、ヘアメイクだけでなく、クライアントやディレクターにも声をかけ、みんなをチームの一員として巻き込むようにつとめた。
撮影が終わったあとは、みんなで記念写真を撮るのが恒例だった。
それは、“一緒に作品を作り上げた証”を残したかったから。
笑顔と達成感に満ちたその瞬間が、僕にとって何よりの宝物なのだった。


ファッション・シーン
ロサンゼルスでは主にミュージシャンの写真を撮っていたが、実はファッション撮影にも強く惹かれていた。
東京の本屋でいつも手に取っていたのが、ファッション写真を撮る写真家なら誰もが憧れた雑誌――『流行通信』。
プロフェッショナルなモデル、ヘアメイク、スタイリストたちとともに“新しい表現”を生み出すその現場は、僕にとってまさに夢のような舞台だった。
だから『流行通信』から撮影の依頼を受けたときのことは、今でも忘れられない。本当に、飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。




本物の海辺のような空間で撮影を行った。思い切ってプレゼンしたら通ったアイディアのひとつだった。
撮影後にあの砂がどうなったのか、今となっては知る由もないけれど、あの“無茶なセット”こそ、当時のエネルギーを象徴していたように思う。



セットの構成はすべて自分で考え、制作は専門のセットデザイナーに依頼。
大きな箱の6面をそれぞれ異なる色で塗り、各面を背景に6つのシーンを撮影した。
僕が求めたのは、静止したポーズではなく、アクティブな動きを取り入れた撮影。静かにポーズをとるのが当たり前だった当時のモデルたちは、最初はアクションを求める僕の要望に少し戸惑っていた。
けれども、僕のイメージを汲み取ってくれた一生さんのパッションに呼応するように、次第にリズムをつかみ、撮影が進むにつれてお互いの呼吸がぴたりと合っていった。
まさに“共鳴”のセッション、忘れられない一日です。

ファッションショーで目にした作品は信じられないほど衣装が長く、モデルがステージを歩き切って見えなくなってからも、布だけがまだランウェイに残っている――そんな挑戦的なデザインだった。
この写真は横浜の桟橋で撮影したもの。潮風に布がなびく瞬間、ファッションが単なる服ではなく、風と光と一体化した“アート”になる瞬間に感動してシャッターを切ったのを覚えている。

1週間、車を好きに乗り回しながら撮影するという、自由度の高いプロジェクト。
僕は迷わず、伊勢神宮を目指すことにした。
伊勢の風景に加えて、ファッションデザイナー・菱沼さんの作品を借りて撮影する構想もあったため、広い場所を求めて佳子の故郷・甲府に立ち寄った。
佳子のお父さんのつてで学校の校庭を借りられることになったけれど、次に問題になったのは途方もない大きさの布を“真俯瞰”で撮影する方法だった。
そこで僕は、消防署のはしご車を使わせてもらい、上から撮影することを思いついた。
再び佳子のお父さんに相談し、消防署に交渉してもらった結果、はしご車を貸していただくことに成功。おかげで撮影は無事に終了した。
状況をよく理解していたとは言い難いのに、快く交渉役を買って出てくれた佳子のお父さんには、今でも頭が下がる。
さらに、モデルとして協力してくれた消防士さんたちにも大感謝。
撮影に同行していた佳子も便乗してはしご車に乗せてもらい、大興奮。
「女性がはしご車に乗ったのは初めてです」と、消防士さんが笑いながら話していたことを今でも覚えている。
古き良き時代の、忘れられない思い出。撮影を無事に終えて伊勢に向かった僕と佳子だったが……
後日談は、また別の機会に!

モデル、ヘアメイクアーティスト、コピーライターの選出から、撮影ディレクションまで、すべて僕が担当した。
さらに、撮影で使用する服のデザインまで自分で手がけることに。
ファッションデザインは初めての経験だったけれど、新しい挑戦としてとても刺激的だった。
僕がデザインした帽子は、実際に商品として発売された。


『流行通信』からは、写真の撮影だけでなく、モデルを頼まれたこともあった。
カメラの前に立つのは慣れていなかったので、カメラマンがセッティングしている間、ビールを何本か飲んで気持ちを落ち着かせた。
ビールの酔いと、カセットプレーヤーから流れるパンクロックのノリに助けられて、なんとか大役を務めることができた。
その後、雑誌を見た人から東京コレクションのモデルとして出演のオファーがあったけれど、自信がなくてお断りすることに。今思えば――ちょっと残念だったかなという気もする。
浅草での出会いの数々
第二次世界大戦が終わった後の浅草は、エンターテインメントの街として多くの人々を惹きつけてきた場所だそうだが、僕が浅草に住み始めた1980年当時は、すでにその賑わいから遠ざかりつつある頃だった。
何十年も前の空気がそのまま残っているような、不思議な気配が街全体に漂っていた。
歴史ある劇場では、ボードビリアンやコメディアンたちのパフォーマンスを観ることもできたが、ノスタルジックな町並み、かつての栄光を思わせる舞台、埃っぽい客席――そうした風情が独特の味わいで魅力的な町だった。
ビートたけしも浅草の舞台からキャリアをスタートさせたと聞く。
写真家としても魅力的な景色は尽きず、路地裏を歩きながら思いがけない光景に出会うのが楽しみのひとつだった。
街のさまざまな場所を、撮影のセットとしても何度も使わせてもらった。
住んでいたからこそ、多くの人たちからいろいろなことを教えてもらえた、大切な町。
LA出身の僕にも、浅草に縁のなかった佳子にもどこか新鮮で、時々友人を誘い、一緒に劇場へ足を運んでは楽しんだものだった。

芸人にとって、多くの人に見てもらえるテレビ出演が主流になろうとしていた頃。
ボードビリアンとしてテレビ出演にあまり意味を見出せなかったパンちゃんは、浅草に見切りをつけ、いち早く町を離れた芸人の一人だった。
ボードビルを上演する劇場そのものが姿を消しつつあった時代の流れを、彼は誰よりも早く察し、熱海へと移り住んでいった。
そんなパンちゃんが久しぶりに浅草に戻ってきたのは、浅草で出会った友人が企画した木馬館でのイベントがきっかけ。
出演をお願いすると、快く引き受けてくれたのだった。
当日は、僕たちの友人も大勢集まり、これまでパンちゃんの舞台では珍しかった若い観客の姿も多く見られた。
その光景がよほど嬉しかったのだろう――このイベントを機に、パンちゃんは熱海から再び浅草へと戻ってくることになる。
彼が浅草に開いた「もつ煮込み」の店は、すぐに僕たちの仲間や芸人たちのたまり場となっていった。

パンちゃんのお家芸のひとつが、ピエロ。
2本しかない前歯が、彼のピエロに独特の風合いと哀愁のある笑いを生み出していた。
ある日、なぜ前歯が2本しかないのか尋ねると、
「瓶の蓋を開けようとして歯を折っちゃったんだよ」
と笑いながら答えてくれた。

パンちゃんのコメディには、どこかダークな影があった。
彼自身、客をただ笑わせることだけが芸の真骨頂だとは思っていなかった。だから、意味もなく笑う観客がいると、舞台の上から本気で叱り飛ばすことさえあったそう。
ステージで共演することが多かったパンちゃんの奥さんは、彼にとってまさに最良のパートナー。パンちゃんのダークな芸が二人の絶妙な掛け合いによって輝いていたんだと思う。
パンちゃんとの出会いは、僕の浅草での時間をいっそう豊かなものにしてくれた。
意気投合した僕に、彼はたくさんの芸人を紹介してくれて、おかげで当時の浅草で活躍していた芸人たちを記録した貴重な写真を残すことができた。
それまで撮影を断っていたパンちゃんが、僕のためにカメラの前に立ってくれたのも本当に幸運なこと。ここに写っているのはみんな、僕たちが浅草で出会ったコメディアンだ。

早野凡平は、パンちゃんの一番弟子。
フェルトの帽子を自在に使い、ナポレオンやサムライ、インディアンなどに変化するのが彼の芸だった。
まだテレビが珍しかった時代からテレビで人気を博していた芸人のひとり。この“帽子芸”は、パンちゃんに500円を払って受け継いだもの。
「500円で売る」という行為こそ、パンちゃんの大切な哲学だった。
「コメディアンは、何かを渡すときは絶対に代金を取らなきゃダメだ。たとえ500円でも。そうしないと貸し借りができてしまうから」
かつて、パンちゃんがそんな話をしてくれたのを覚えている。
その教えを胸に、帽子の芸を磨いた凡平さんはやがてテレビの人気者になり、大きな屋敷を建てるほどの成功を手にする。
まさに、500円で手に入れたサクセスストーリーだった。

パンちゃんの弟、ショパン猪狩さんと、その奥さんの千恵子さん。
ふたりが「東洋大魔術のヘビ」とともに繰り広げたのは、笑いの小宇宙だった。
「ヘビは弱者」「千恵子夫人は常識者」という設定の中に、社会の風刺や人間の優しさが込められていて、ユーモアの奥に深い温かみを感じさせるコントだった。
長年にわたり多くのファンの心を掴み、笑いを届け続けてくれた名コンビだ。

トロンボーンを口に乗せて天を仰ぎ、両手を離したまま演奏する。極めつけにはトロンボーンから万国旗が飛び出す――それが彼のお家芸。
1981年、ロンドンで開催された世界演芸オリンピック(Royal Variety Performance)でイギリスの観客を魅了し、そのパフォーマンスが高く評価された。EPレコード『トロンボーン・コンチェルト ヘ長調』もリリースしている。

波多野栄一(撮影当時83歳)が「百面相」の芸を極めたのは、戦中から戦後にかけてのこと。米軍の慰問公演のために、見ただけで楽しめるこの芸を考案したそうだ。
コーラン、カウボーイ、お化け、忍者、お札……さまざまなキャラクターに自在に変化するその姿は、まさに達人の域だった。

言葉では説明しきれない、卓越したコミック・バイオリンの名手の福岡詩二さん。
まさに、音楽とユーモアが融合した至福のエンターテインメント。確かな演奏技術の上に構築された笑いと驚きのステージは、何度聴いても飽きることがなかった。

新派の芸をベースに、一人二役の演目を生み出した牧島光男。
片方が女役、もう片方が男役という設定で、男女の愛憎劇をひとりで演じ分けた。
資金を集めては、気の合う仲間たちと自由な自主公演を行うそんな気風の芸人で、プロデューサーとしての手腕もまた、彼の芸の一部と言えるものだった。

本来の出演者が突然出られなくなり、ピンチヒッターとして登場したのがきっかけで芸人になったという異色の経歴の持ち主。
しゃべりながら各県の特徴を盛り込み、即興で描き上げていく“全国の県シリーズ”が代名詞となり、多くの人に親しまれた。

熱海から浅草に戻ったパンちゃんが開いた、煮込み料理のお店。
芸人仲間がいつも集まっていて、いつも誰かが歌ったり芸を披露したり。
笑い声の絶えない賑やかな場所で、みんなで飲んで食べて、尽きない話をしているうちに、いつのまにか夜がゆっくりと更けていったものだった。
パンちゃんが自分の孫のようにかわいがってくれた、わが家の長女の1歳の誕生日も、ここで祝うことができた。
その夜は、たくさんの芸人さんたちが次々に芸を披露してくれて煮込みと焼酎でお祝い。
忘れられない、心温まる夜の思い出になった。

