もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン LAバンドとミュージックシーン

Art center college of Design in Los Angelsでの最後の年、The Band, Ray Charles, Tina Turner, Rolling Stones, Frank Zappaなど、数々のレコードアルバムを撮影する超売れっ子のNorman Seeffに会いに行ったところ、友人が立ち上げたばかりの音楽雑誌社が写真家とエディターを探していると、その雑誌社の編集長を紹介してもうという幸運に恵まれた。70年代後半に、僕がメインで写真の仕事をしていたのが、この時にNorman が紹介してくれたPhonographic Record Magazine (PRM)という音楽雑誌だ。ロックミュージックに関するニュースや情報を紹介するグラビア中心のフリーペーパー。ロサンゼルスの音楽シーンに興味があった僕にとっては絶好の仕事だった。新しいレコードアルバムの情報や、クラブで新しいバンドを取材することで、たくさんのミュージシャンや制作関係者に会って写真を撮り、話を聞く機会に恵まれた。

Hollywoodにあった有名なニューススタンドLas Palmas News standで、Lanceと彼のグループの撮影。
ボーカルのLoud(中央)がテレビで知られるようになったのは、PBS(Public Broadcasting Service)のドキュメンタリー「An American Family」に出演したことがきっかけだった。裕福なカリフォルニアの家庭で育ったLoudの家族の日常を記録し、12エピソードの構成で放送された番組。その中でLoudは自分がゲイであることを公表するなど、センセーショナルな出来事が次々に暴露され、視聴者に様々な意味での社会的な衝撃を与えた番組だった。
その後、LoudはNew Yorkに移ってAndy Warholやthe Mumpsと交友を持ち、CBGBやMax’sなどで多くのファンを得て成功をおさめる。Loudと彼のバンドMumpsは多くのファンに支持され、CBGBやMax’sなどのライブでは、チケットはいつも即日完売だった。


Jr. Walkerとオールスターズの大ファンだった僕は、この日の撮影に大興奮だった。撮影場所をすぐに決めなければならないのはいつものこと。大急ぎで探して見つけたのがMotown Recordsの隣にあった銀行の駐車場だった。ハリウッドっぽい場所を探したかったので、キャデラックがたくさん停まっていたこの背景で即決。ドキドキしながらもワクワクの撮影になった。


これを撮影したのはKiki Dee がElton Johnとレコーディングしたばかりのとき。熱狂的なKiki Deeのファンだった広報担当者は、インタビューが始まる前から彼女の曲を10回以上、何度も撮影スタジオに流しながら興奮していたのを強烈に覚えている。Kiki Deeはとてもフレンドリーで明るい性格で、写真を撮る時も自然体だったので、僕もリラックスできて楽しい撮影になった。
大ヒットするだろうという予想どおり、「Don’t Go Breaking My Heart」はUKとUSの両方で1位を獲得した。


Motown RecordsのスタジオミュージシャンだったWah Wah Watsonは、Marvin Gaye, Jackson 5, Temptations, Four Tops, Gladys Knight & the Pips, the Supremes, Pointer Sisters、Herbie Handcockなど、数多くのアーティストに引っ張りだこのギタリストだった。Wah Wahというニックネームは、エレキギターのWah Wahペダルで作り出す音に由来する。写真はWest Hollywoodにあったの彼の自宅で撮影。彼の犬にも特別参加してもらった。

Dwight Twilleyと彼のバンド仲間Phil Seymourは、オクラホマ州タルサ出身。Leon RussellのレコードレーベルShelter recordsでアルバムをレコーディングした。この写真は新アルバムのプロモーションでLAに来た時に撮影。ヒットを飛ばして大物になるという印象だったけれど、思ったほどの成功は収められなかった。ヒットを飛ばし人気を継続させるためには、才能に加えて運とタイミングの要素も必要なのだった。


ファンクバンドのBloodstoneを、ハリウッドのナイトクラブSoul’d Out前で撮影。
日本でも超有名なBeach Boysの創設メンバーのひとりがMike Loveだ。1978年にMike Loveが結成したCelebrationという新しいバンドは長続きしなかったけれど、メンバーにはジャズサキソフォーン奏者のCharles Lloydに加えて、King Harvestのバンドメンバーたちが一緒に演奏していた。
当時、映画「Almost Summer」のサウンドトラックを制作したCelebrationは、映画のプロモーションのために南カリフォルニア大学で無料コンサートを開催。Beach BoysやJan and DeanのメンバーDean Torranceもこのイベントに参加して盛り上がった。
司会は、当時乗りに乗っていたWolf!
PRMの取材で行ってみると、大物たちが演奏するフリーコンサートという噂が広まっていたようで、会場となったUSC(University of Southern California)には学生以外に業界人もたくさん詰め掛けていた。眩しい太陽のもと、Beach BoysとCelebrationを楽しむには最高の日になった。

USC(University of Southern California)であったMike LoveとCelebrationのライブコンサートライブを取材に行った 。
Beach Boysの、中でもMike Loveの大ファンだった佳子が同行することになった。
ライブ前にトイレに行った佳子がニヤニヤしながらトイレから戻ってきて、トイレ内の思いがけない出来事を嬉しそうに話してくれた。
トイレを使用中、入口のドアを開けながら入ってきた男性数人の声! やばい!と思った佳子は声の主が出て行くのを待つことに。しかし、声の主が出ていくどころか、何人かの男性がさらにトイレに入ってきて、どうやら人数が増えた気配!
しかたなく覚悟を決めた佳子は、気まずそうに装いながら「間違えたトイレに入っちゃったみたい!」とトイレの扉をあけて外に出ると、そこにいたのはCelebrationのメンバー全員だったと。
当日はUSCの女子寮を出演者の控え室やリハーサルとして使っていたために、女子用のトイレは男子用だったというのがオチ!
この思いがけない出来事のおかげで、女子トイレという摩訶不思議な場所ではあったものの、彼女は憧れのMike Loveと彼のバンドのメンバー全員に出会って話をすることができた幸運をゲット。しかもMikeからは日本語で歌詞を書くのを手伝ってくれる人を探していると言われたという嬉しい結末も。
佳子にとって、今では夢のような笑い話のような一日だった。


表面的には、気楽で幸せな時代だったが、同時にこの時代の学生たちは、ベトナム戦争、公民権運動、女性解放運動など政治・社会問題に積極的に関わってもいた。




Wolfman Jack は1970年から1986年にかけて、米軍放送網AFNのラジオ放送のために音楽とコントの番組を制作。たしかこの番組は53の国と地域、2,000以上のラジオ局で放送されたと聞いている。日本でも「FEN」と呼ばれたAFNの日本支局で放送されていたと思う。1973年の映画『アメリカン・グラフィティ』では本人役のラジオDJとして出演している。


Rene Daalderの挑戦
Rene Daalderはロサンジェルスに移住したオランダ人映画監督。安っぽいユーモアと巨乳の女性をフィーチャーした一連の低予算映画で知られるRuss Meyerの弟子だった。そのReneにScreamersのパフォーマンスを観るよう勧めた友人のおかげでReneはScreamersに心酔! ミュージックビデオとライブパフォーマンスをコラボする、新しいプロジェクトの実験的なアイデアを実施することになった。MTVが始まる2年も前のことだった。
Screamersのライブパフォーマンスと、ボーカルのTomataが発散するエネルギーを収めた映像を組み合わせたステージの構築に、彼は数か月の時間を費やし、その撮影のためにScreamersは9か月間もの長きにわたって地元ロサンジェルスでのライブ活動を停止することにもなった。

ようやくすべての準備が整うと、ライブハウスWhiskeyを3晩押さえた。1979年5月、新たなチャレンジへの高い関心もあって、チケットは発売と同時に完売。
そしてみんなが待ち焦がれたライブ当日。革新的なショーに期待を膨らませたファンに混じって、僕も初日に出かけたのだが……クラブのシステムに技術的な問題が発生、開演までに長い時間がかかってしまった。今では当たり前になったライブコンサートと映像の組み合わせだが、今回のマルチメディアの幕開けは結局、不完全燃焼に終わってしまったのだった。

Rene DaalderはScreamers以外にもLAパンク・ミュージシャンたちを撮影していて、後にそれらの映像を構成して映画化している。映画の中で主人公をつとめるTomata du Plentyは、地球上のすべての生命を死に追いやった核爆発の唯一の生存者という設定。制作にあたっては資金集めなどの様々な困難があったが、カンヌ国際映画祭やその他いくつかの映画祭で上映された。


Trendsetters
John CougerのデビューレコードをBill GaffとRod Stewartが所属するRiva Recordsから出す契約が決まった。Marty CerfはJohn CougerとRiva Recordsのプロモーションのために、Trendsettersと題した書籍を出版することになった。取材で多忙なPRMの仕事に加えて、書籍を制作するという一大プロジェクトに関わることになって、とにかく忙しい日々を過ごしたが、音楽業界、コンサートプロモーター、ラジオプログラマー、音楽ジャーナリスト、アーティストマネージャー、グラフィックアーティスト、そして新人を発掘しようとするひとたちなど、業界すべてを巻き込んでの新人アーティストJohn Cougerのプロモーション計画は結果的に大成功を収めた。

Linda RonstadtやJames Taylor、Warren Zevonなどメジャーアーティストのマネージャーとして、またプロデューサーとしても知られているPeter Asherだが、実はビートルズや他のイギリスのバンドがアメリカを席巻したBritish Invasionが起きたころ、ポップデュオPeter and Gordonのメンバーだったこともある。ミュージシャンとして活躍した後、Asherはマネージャーやレコードプロデューサーとして成功し、音楽業界に多大な功績を残した。
※British Invasionとは、1960年代半ばにイギリスのロックやポップ・ミュージックをはじめとする英国文化がアメリカ合衆国を席巻し、大西洋の両岸で「カウンターカルチャー」が勃興した現象を指す言葉。

ロサンゼルス・タイムズ紙の音楽編集者兼評論家を数年間務めたRobert Hilburn

300枚を超えるアルバムジャケットをデザインしたグラフィックアーティスト&イラストレーター、John Van Hamersveld。代表作は、Beatlesの『Magical Mystery Tour』、The Rolling Stonesの『Exile On Main Street』、Jefferson Airplaneの『Crown of Creation』などなど。

1970年代初頭からポップミュージック界を取材してきたライター兼編集者のRichard Cromelin。Rolling Stone、Creem Circus、Phonograph Record、New Musical Expressなど、多くの音楽雑誌に寄稿していた。

長年音楽業界で働き、PRMのスタッフの1人でもあったJohn Hillyardは、ミュージシャンやレコードレーベルに関して誰よりも事情通だった大先輩。当時、ロカビリー音楽に夢中だった僕に50年代のユニークなロカビリー・アーティストのことを教えてくれたのもJohnだった。
まだ学生だったDJ ShadowもJohnのコレクションが並ぶ店の常連だったようで、店に来ると何時間もレコードを聴いていたそうだ。世界中のコレクターがどのアーティストやレコードを収集しているかなど、Johnしか知らないニッチな話が大好きだったという話をJohnから聞いたことがあった。
1980年に僕が日本に移住してからJohnとは連絡を取ることもなくなってしまったが、ある日、Johnの生涯についての記事を書きたいと思ったDJ ShadowがJohnと関わりがあった人を探しているということで連絡があってDJ Shadowにとって Johnからの影響が絶大だったことを知った。
Johnが数年前に亡くなったということを知ったのはその時だったが、DJ Shadowにとっても僕にとっても若かりし日のだいじな出会いを懐かしむ機会だった。

